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The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

中小から有名大手へ転職したら

一般的に難しいといわれている中小から有名大手への転職ですが、ネットでもちらほら報告記があるように不可能ではありません。
結局、人の能力とタイミング、と言い切ってしまったらそうなんですが、一応私の体験を書いておきます。
これから転職しようと考えている方の参考にでもなれば幸いです。

元の会社:翻訳・通訳関係 人数2~30人ぐらいの超零細家族経営会社。
転職先:翻訳と全く関係ない異業種の総合職。数千人規模で日本全国から海外にも支店がある大手。名前を言うと結構な割合で知られている。公共性の高い重要な業務で未来を担う新規事業への意欲と技術力を持ち将来性は抜群。

転職者のスペック:30代半ばぐらいの海外大出、7月卒業のため、日本の新卒一括採用に対応できず、リーマンショック前後の煽りで選択肢がなかった。同じ海外大出仲間では就職に失敗したあげく浪人を何年もやった人は結構いたので、自分はまだマシだと言い聞かせて働いてきたが、信頼できる同僚の突然死や離職が相次ぎ、結婚するためにもこんな不安定な場所ではいけないと退職を決意。また、翻訳・通訳業界に今後の未来を感じなかったのも大きい。英語は一応、喋るとそこそこ驚かれるくらいにはできる程度。その他の言語も少々。

転職できた理由:募集していた企業で外国語ができる人材が急に枯渇していたので、早急に入れる必要があったというのが大きかったとは思います。
また、中小零細にありがちななんでもやっちゃう営業マンの経験が採用担当のツボに上手く入ったとは思います。
すんごく入りたかったので必死に業界事情や関連ニュースを読み漁り、面接前に頭に叩き込みましたが、細かく聞かれることなくトントン拍子に進んだので、結果から考えればそんなに勉強しなくても良かったです。とはいえ、入った後で当然その内容は使えるので、無駄ではなかったのですが。
最後はマッチング、というのは転職中の状態では「そんなこと言われても」と思って心苦しいのですが、振り返ってみればその通りでした。でも、個人的には励ます目的でもあまり使いたくはないなぁと思います。転職中の不安な状況ではどちらかというと具体的な話の方が欲しいので……。

転職エージェントについて:大手のリクナビを使いました。転職エージェントはどれを使うか、はたまた人づてか……は当人の状況に依るのでなんとも言えません。大手エージェントの良さはとにかく情報量が多いことだと思います。どこに行ったが良いか決めあぐねている、とか、いっそ別業界で、という場合は使うのが良いかもしれません。ただし、担当者は大体よくわかっていなくて勢いタイプなので慣れることと最後は自分でなんとかするという意識を持つ必要があります。逆に同業種でならある程度絞ったエージェントの方が対応が丁寧でフォローが利きやすいかもしれません。人づてはあるならそれに越したことはないと思います。

入った当初の感想:オフィスは当然ながら20人零細と本社数百人レベルは雲泥の差があるので驚く。そして若い人の多さとその優秀さに驚く。中途にもちゃんとした研修があることに感謝感激する。中小零細はなんだかんだで訳ありな人材が来る率が高いし、選ぶ側も訳ありだったりするので、いきなり信頼できる人達と働ける幸せを噛み締めた。

給料:転職後周りから散々、めちゃくちゃ上がったでしょ!と言われるが、実際にはそんなことはない。業界的にというのもあるが、額面でいえば同じか少し下がる。ただし、手当は特にこの会社がというのもあるが中小零細ではまず考えられないものが揃ってるし、ちゃんと残業代もボーナスも出るのでトータルで考えると安定性と手取りは改善されて生活はかなり楽になった。業界にもよりけりだが、そもそも昔ながらの日系や日本に根付いた外資では給料の大きな改善は望めないのだと思う。額面のみ見て稼げるところに行くというのは何らかの犠牲か特殊な事情があるのだと思うので、慎重になった方がいいと個人的には考えます。

労働時間:これはちゃんと管理されている。中途なのである程度覚悟していた通り、会社の中でも特に激務の部署に配属となったものの、中小零細時代の適当な時間管理と裁量制といいつつ上のフィーリングで決めようとする労働状況にうんざりしていたので、精神状態としてはかなり良い。そして、激務と言っても中小の激務時期に比べると時間も内容も遥かに良い。今はこれを見てダラダラと仕事をしていた時がなきにしもあらずだった過去の自分への戒めにしている。

業務:当然だが、組織がより複雑なので何をするにも承認関係の処理はすごく増えた。中小零細にある許可一つで社長代理印をポンと押せるなんてことは絶対にない。細かい社内ルールを覚えなければいけないので、これは転職先に迷惑をかけている最大の部分だと思う。でも、事前に聞いて恐れていたほど非効率で時間を取られている業務だとも思えない。承認される=その業務を行う責任を分散できる人達がいるってのはとってもありがたいことだなぁとしみじみと感じている。中小零細はよく言えば多くのことが個人で完結できるので、自分がやっている!感は強いのだけど、組織的な責任問題に非常に弱い……というか何かとんでもないことが起こってもまともに組織として責任が取れないことすらある……(そういう重要な問題自体、影響範囲があまり大きくない中小ではめったに起きないから高を括ってるのもある)。逆に大きな組織だと一部歯車になって全体が見えないもどかしさはようやく実感と理解ができた。でも、がんばって自発的に情報を集めれば組織内の人の関りが分からないわけではないし、中小でも何も考えないでただ目の前のことを処理している人はごまんといるので、結局のところ、会社と業務の理解は「本人の意識と努力の問題」という気がしなくもない。中小から大手のほうが理解が早いかもしれませんが、逆は未経験なのであくまで予想として。

社員:公共性の高い仕事という面からくるのもあると思うが、やはり社員の意識は概ね高い。名前がそこそこ知られているというのも意識の高さを手伝っているとは思うけど、かといって持ち上げられまくるほどでもなく、上から下までえばり過ぎない感じで自分としてはちょうどいい塩梅の状況にあると思う。会社の特性でもあるかもしれないけど、ちゃんと考えて説明でき、コミュ力の高い人は多い、というかそれができないと仕事もできない感じ。更に若干仕事ぶりからフィルターがかかってしまっているかもしれないが、総じて見た目も良く感じる。総合職の中でも本社配属だから選抜されているのだろうけど、そういう優秀なできた人達の中に自分がポンと入っていいのかとちょっと申し訳ない気持ちにもなる。

設備:どうしても社内調整が多く、顧客との会議も頻繁に発生するので会議室と他社会議室と繋ぐための通信関係はすごく充実していると思った。これは小さなオフィスしか使えない中小零細からすると羨ましい限り。逆に個別に支給されるパソコン・携帯や業務用のシステムに関しては「期待するほど大したことない」というのが正直な感想。承認と関連するが、中小零細は上が頷けば素敵な設備が突然ポンと会社に現れたりする一方、組織が複雑だとどうしても面倒になるのだろう。大手にいると個人が冷遇されていると感じる要因の一つかもしれないが、実際問題、組織の図体がでかい分より力が必要なのは仕方がないと思う。逆に中小零細にありがちな「変な営業に上が騙されてよくわからない装備が突然現れる」ことによる脱力感もないと思うので、これが今の周りに伝わらないのはなんとももどかしい。

組織改革:組織改編にとる対応に追われたりするのは組織が大きいほうがより大変だとは思う。逆に周りが文句を言うほどにどうしようもない理由で組織改編を行っているわけでもなく、事前に様々な人達がじっくり検討したうえで行っているので安心できるともいえる。中小零細は許可さえうまく取り付ければ改革を断行するのは容易い。逆に「どうしようもない理由で改革断行」「変えたものの実際何も変わってない」「変えたらむしろ致命的な状況に陥る」方のリスクが良くなるよりも遥かに大きい(そもそも訳あり人材が入りやすい環境だということを忘れてはいけない)ので、改革できることへの幻想をあまり過度に抱いてはいけないというのが強く強く思う事だ。

総合的に:色々と違うところはあるものの、「組織で働く」という根本は変わらず、自分がかつて悩んでいたことも実は「どうしようもないことだった」と気が付いたものも多々あった。どうにも非効率に見える業務内容、上司と部下のやり取り、思ったように良くならないもどかしさ、辺りはどこへ行ってもついて回るし、同僚の口から出る愚痴と自分がかつてそれに頷いていたことは「あんまり意味がなかったもかもしれない」というのに気づけたことが最大の転職してわかった利点であったように思う。どこへ行ってもダメなところは必ず存在するが、それ以上に良いところと現実から見た判断が適切にでき、自分がいかに良い精神状態を保って業務に励めるかが重要なのじゃないかと今は思っている。幸いにも私はこの転職は現時点で最高クラスに良かったと思ってるし、同じような体験を多くの人にしてもらいたいと思っている。じゃあ多くの人に適用できるし、強くおすすめできるかというと微妙で、違う業界、違う方向、違う内容での転職の話でも比較していくと見えてくることがあるかもしれないぐらいに考えてもらいたいと思います。まだまだ人材の流動性が低いといわれる日本市場が活性化する手段の一つとしてもちょっとした参考になれば幸いです。







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  1. 2019/01/19(土) 20:47:34|
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国籍のない企業と国のお話

明けましておめでとうございます。
まだ続けるのかという人も出そうなぐらい過疎状態、読む人も限られているブログですが、本年もよろしくお願いいたします。
2018年は怒涛のような出来事の連続で、正直かなり疲れた状態で2019年を開始することになったのですが、
色々なことにまだまだ挑戦できそうなので、がんばっていきたいと思います。

さて、さっそく本年一発目の話題ですが、いきなり今まで書かなかったビジネスのお話です。
といっても何をどうすれば儲かるという話でもなく、割と歴史的経緯とか根本的なことを踏まえた上での全体のお話になります。

タイトルのとおり、企業について話すのですが、知っての通り企業というのは法人格という人格を持っていることになっています。
これはまぁ法的な処理場そうしておかなければ、という身も蓋もない話で終わらせてしまっても良いのですが、
あえて、何が普通の人と違うのか、という点において「国籍がない」ということに注目したいと思っています。

よく「日本企業が~」という話は上がりますが、厳密に日本企業というのはどこにあるのか?と考えると、「よっぽどがっつり日本政府機関なりとべったりか国策企業のようなものでなければ、そんなものは存在しないのではないか」というのが現実として思われるところです。
資本を日本人が提供し、日本人が経営し、従業員のほとんどが日本人という会社も多く存在しており、それこそ日本の企業っぽいのですが、これらも今後もずっとその形でいかなければならないというルールもどこにもなく、いつでも外国との関係に変わりえる存在です。
日本の企業が外国で活躍している、という話に心躍ることはありますが、実際に進出した先では「その国の企業」として生きることになり、極力日本であることを強調し過ぎず、進出した国の人々のためになるように働くことが必要になってきます。

これは企業で働いていても、自分の業務だけに従事している狭い範囲でいた際にはあまり見えてこなかった(一応なんとなく薄々そんな気はしていた)ことなのですが、昨年末から仕事を変えたことで広く流れを見れるポジションにつけ、視野が広がり、がっつりと認識しなければいけないと思う事の一つとなりました。

それこそオリンピックに向けた各分野での「オールジャパン体制」というのは国や都が音頭を取って各企業の協力のもとにプロジェクトを進めているわけですが、実際のところ、企業そのものとしてはよっぽど国の支配をうけない存在なら、その体制に協力している形を取りつつも、海外勢とのビジネスは関連する分野でもしっかり進めていたりしますし、その行動が必ずしもオールジャパンとしてどうか?と言われると微妙だと思われることも多々あるのですが、実際、そういう行動をとる自由まで制限される筋合いはどこにもありません。

そして、なにより、国内限定ビジネスよりも海外も含めた大きなプロジェクトとして動かす方が、遥かにビジネスとして旨味が大きい。そうすると、一国ばかりを考えてビジネスを限定していると大きいと思っている国からですら大した利益を得られない一方で破綻する恐れすらある。
「一国優先ビジネスを展開するメリットが企業としてどこまであるのか?」と考えると、大企業に限らず中小企業にも今後広がっていく認識だと思っています。
そうなると、今、世界で行われているナショナリズム的政策にどこまで意味があるのか?実際問題、すでに網の目のように各国の企業が交錯している中で、この企業はうち、この企業は外と切り分けることはかなり困難となっています。
その企業の中に複数の国籍者があつまり、複数の国籍から出資を受けている、のは当然として、そうでない企業でも1つの製品やサービスを提供するために複数の国にまたがったビジネスを行っていることはいくらでもあります。
なので、結果として「自国の企業を支援しているようで、他国企業の旨味になっている」「自国企業保護のために他国企業を排斥したら自国ビジネスが死にそうになる」という現象が確認できるわけです。
そもそも、ここで書いている「自国企業/他国企業」というのも変な話で、あくまでその国発祥か、その国の人が多く働いているといった一面的な基準で決めた内容であり、本当にそうなのかといった根拠はかなり希薄なものだと思われます。
そうすると、「明らかに自国政府機関にとって利益になる」を基準とした企業支援や活動を行わざるを得なくなるのですが、あからさまにこれをやってしまうとさすがに……という意識がかつてはあったのですが、そうでない国、そんな余裕がない国も出てきている、というのが去年の末ぐらいにすったもんだをやっている内容なのだと個人的には認識しています。

国家としては企業の利益とそこから得られる税収は無視できないので、ビジネスを国際的に拡大していく部分に関しては相当容認せざるを得ません。
ただし、それを広めるということは同時に企業のかつてはなんとなく自国主義的に動いていたように見えた企業がより国を離れたビジネスを展開しやすくなる、ということと同義であり、税収の増加があるようで、企業と国の格差(言うまでもなくすでに企業の方が上になりつつある)が開いていくことになる要因となっているようです。

単純な給与にしても、官僚のトップたる事務次官が数千万レベルのところ、それなりの企業の役員でそれぐらい貰うのは普通で中には数億貰う人すらいるわけですし、それ以外に追加的に貰える資産も考えていくとあまりにも差が大きく、国の最高学府たるところを卒業した学生達が目指さなくなるのも仕方がないと思えてきます。
なので、官僚はじめの給料は国という大きな仕事を背負っているのに給料が安すぎるので上げるべき、という話も聞きますが、実際問題として、国家の中に限定されてしまう国の仕事は複数国家に跨って動かす企業に比べると意外と「大きな仕事というほどに大きくもない」というのも実態であり、単純な価値としてどこまで考えるかはこれまでの感覚からは少し切り替える必要があるのではないかとすら思えてきます。

国家と企業を比べるのはあまりよろしくない、という感覚もあるとは思いますが、国も税収を上げて運営を行う必要がある以上、企業同様にお金とは切っても切り離せない存在です。大きく違うのは収入の得方と、国は投票とそれによって選ばれた政治家が動かしますので、国際的な利益を得る手段が極端に限られるといいますか、ほぼ企業依存となっているのが格差が広がってしまっている原因なのだと思います。

企業も国も究極的にはどちらも関係する人を幸せにするために存在する組織と言えます。今まではある程度の棲み分けを行っていた存在が同じ土俵に立たされ比較されるようになってきたこの時代。私たちは単純な投票や政治活動といった枠組みにとらわれない形で、より多様な社会貢献を考えていく必要が出てきたのかもしれません。



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  1. 2019/01/05(土) 12:56:38|
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翻訳・通訳が見限られた日

 大分寒くなってきましたが、相変わらず元気に過ごせています。
 少し前に仕事を変えまして、10年弱働いた翻訳・通訳業界から全く別の業界に入りました。
 今は新しく覚えることが大量にあるので、なかなかこれまでの活動が少しやりにくくはなるのですが、コンプライアンスと労働管理はそれなりにちゃんとしているので、多少スローペースにはなるかもしれませんが、継続していけそうだとは思っています。

 今回のタイトルはそんな転職話にかこつけた話でもないですが、翻訳・通訳というのは世間体はすごくよい職業ではあるのですが、色々ともう昔のような地位はないんじゃないか、ということを書いていきたいと思います。

 AIの台頭で奪われるのではないか、特に自動翻訳や自動通訳の機械は性能は十分とは言えないものの大分身近になってきましたし、将来なくなる仕事で予想されるときにかなり高頻度で出てくるものです。
 個人的に調べたり経験した範囲でいえば、少なくともなくなりはしない、と断言していいと思っています。というのも、当の翻訳・通訳会社ですら、機械翻訳・通訳と人的翻訳・通訳の部門を完全に分けており、顧客層も異なることが明確になっているというのがあります。人的から機械へのリプレースはないわけではないのですが、特にしっかり人的翻訳・通訳が必要だった部分まで大幅に機械が食い込めるわけでもない、逆に言えばリプレースされた部分は人的翻訳・通訳をやるにしてもそれほど「人の力」であることが重要視されていなかった部分でしかない、ということだと思っています。また、機械翻訳・通訳で出てきた内容を人がサポートするというシステムの構築によって大胆な改革になるともいわれていましたが、これも特に進んでいる様子はなく、そういう翻訳・通訳はむしろより機械寄りの機械サポート的立ち位置なのであって、むかしからの本当に人の人たる力が必要な翻訳・通訳はこれからも残っていくとは思います。
 ただし、ここからは強調していきたいのですが、人の力による翻訳・通訳の需要というのはある段階で頭打ちになり、今後の大幅な単価上昇や仕事の内容が楽になるということはない、というのが私だけでなく、概ね業界全体の見方であると思っています。

 その原因として、「人が他言語を覚えること」に関しても技術の進歩による影響は無視できません。"技術"というと機械をすぐに思い浮かべがちですが、ここでいうのはどちらかというと「教育技術」の方で情報通信と他社とのコミュニケーションがインターネット接続で容易になった現在、外国人との交流はかなり容易になりました。また、これまで海外進出に積極的だった、いわゆるアウトバウンドだった日本はすでにインバウンドに視点を移して外国人をいかに取り込むかに注力し、外国人を見ることは都市部ではもはや当たり前となってきました。情報を得ようと思えばいくらでも手に入るし、交流しようと思えば気軽に交流できる環境が整ってきたのです。特に言語は専門知識と言われながら、高度な専門書籍で重要な内容を把握するよりも、基本の積み重ねと毎日の反復練習が特に重要な代物で、厳密には「専門的でもなんでもない」かもしれないものです。なので、早い人は数か月から一年もすればそこそこに会話可能な力をつけてしまい、後は仕事に関する専門知識を盛り込めば(これはすでにその職に就いている人であればそれほど困難ではない)よいということになります。ですから、昔では一つ他言語を覚えれば尊敬されたものが、今は英語はそれなりにできるのは普通になってきていますし、大体のビジネスではそれなりの英語で事足りることが分かってきています。人的翻訳・通訳に関しても希少性が大分落ちてきているということです。そのため、もはや企業は翻訳・通訳に大きなお金を出すことに価値を見出していません。

 もっとも通訳に関しては「同時通訳」という高度な技能がありますので、これは単純な言語能力とは別の訓練と才能がものをいいます。ただし、同時通訳が要求される場面というのは必ずしも多くないので、需要面で本当に安定しているかは考えるべきでしょう。でも、それ以外の逐次や同行通訳に関してはよほどの専門性とかけあわせないと仕事そのものに結びつけることすら難しくなるのではないか、というのが私の思うところです。なにより、同時でもそれ以外でもよりクリティカルな部分として「そもそも時間と場所を拘束してまで、人と人が出会ったり、大きな会議やセミナーをやる価値がどこまであるのか」というのはこれからの国際組織や企業の中でより議論となる部分だと思われます。特に通訳は場所と時間に拘束されることを前提に大きな収入を得ていた分野ですので、この前提が今後変わってくるとなると、また違った方向性を模索しなくてはいけなくなると考えます。インターネットをはじめとした情報通信網の発達は場所と時間の拘束から人を解き放つことができるわけですが、それに依存いていた「人と人が出会わなければできない」仕事は徐々に通信網の整備によって自らの価値を考え直さなければならなくなるといってもよいでしょう。

 さて、元々、翻訳も通訳も企業に行って仕事を行う場合、派遣として働く仕事の筆頭として挙がっていました。今でこそ下位のイメージが強い派遣ですが、本来は翻訳や通訳のような高度プロフェッショナル技能者に限定したもので、このような技能者をすぐに集めるのが容易ではないため、仲介企業の存在が必要だった、というのがかつての事情でした。派遣に関する法律が改正された直後、派遣の地位を高く見せるキャンペーンは行われましたが、すぐに需要と供給の原理で給与が安いことや使い捨て出来ることが見えてきたので、それほど効果はなかったと思います。そもそも、派遣だから地位が高いのではなく、その派遣される人達が「高度プロフェッショナル技能」だったからこそ、地位があり品格があったのだと思います。時間に厳しく、残業などもってのほか、仕事内容が大きく元からいる社員と異なるのですから合わせる必要などもなく、仕事がなくなった場合の解雇は容易ですが、すぐに次の仕事を派遣元の会社から斡旋されますので特に問題はありません。ですが、このような「真の派遣」たる翻訳・通訳業であっても、私の知る範囲ですでに10年前からそれほど高給取りではなかったというのが実態だったと思います(10年経った今、さらに仕事数も給料も減りましたが)。つい派遣に関する法律が変わって、派遣の地位が下がったからその煽りを受けたような解釈をしたくなりますが、実際のところ、そもそも翻訳・通訳を派遣するということに企業が価値を感じなくなってきたというのが大きいと思っています。先も書いた通り、それなりの英語力と専門知識を持てばビジネスに大きな支障はないのに、なぜそこにお金をつぎ込まなければいけないのか、と考えるわけで、それなら専門知識を覚えるほうに投資するほうがよっぽど組織のためになります。昔のように語学を習得するのが困難で希少性があり、なんでも人と人が合わないとどうしようもなかったり、人を集めた会議やセミナーを開催することに価値がいつまでもあるわけではないのです。

 こういった時代の流れを見ていくと、私としてはすでに「語学のプロ」と言われた人たちは相変わらず残っているそれなりに高い世間体とは別に「見限られた」と表現しても良いのではないかと思っています。昔のような地位を持つべきだ、もっと給与を、というのも思わなくはなかったのですが、さすがに需要の根本自体が変わっている中でそれは「伝統工芸品をみんなに使ってもらうために補助金を出す」ぐらいの愚行ではないかと思わざるを得ません。また、「なぜそれが専門的なのか、プロなのか」という部分に関してより厳しい目を持たなくてはいけないと思っていますし、少なくとも企業のある程度上の人々はそういうことをすでに考えています。だから、なんとなく残っている文化・世間体・地位の感覚をそのままに翻訳・通訳を選んでしまうと、今後とても辛いことになるのではないかと思わざるを得ないところがあります。需要が減っても全く必要なくなるわけではなく、上手な関係を顧客と築けた場合、それこそ先も書いた伝統工芸の職人のごとく残る人々はいるでしょうし、それなりの収入を得ていくと思います。ですが、本当に必要な仕事かと言われると少なくとも伝統工芸の職人は世間体も地位もあり安定したそこそこの収入(ただしすごく多くはない)もありますが、別になくなっても社会全体への影響は限定的です。自分がそういう分野で働くのだという意志があるのであれば、満足に働けるとは思いますが、そうではないのであれば、もっと違う分野に進むほうが、より世のため人のためであり、全うに働けるのではないかと私は考えます。



テーマ:語学の勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018/11/17(土) 10:41:08|
  2. 翻訳関連
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国家法人説と天皇機関説について雑感

 突然寒くなってきたのですが、なんとかやっております。
 ここ最近、新しい仕事をはじめたのでバタバタとしていたのですが、その中でも安心できる生活がしばらくできそうなので、少しづついろんな活動を再開していきたいと思っています。

 さて、今回、ひょんなことからちょっと興味をもって国家法人説と天皇機関説を今の日本でどう考えるか?というところでつらつらと読みつつとりとめもないことを考えていたので、メモも兼ねてここに書いておきたいと思います。

 美濃部達吉が日本国憲法を主権の存在の変更として批判していた話は有名ですが、この辺りについてのなぜだったのかなぁと思ったのが始まり。
 単純に国家法人説や天皇機関説が古い学説で、現在の国民主権と国家を結び付ける内容とはそぐわない、と言ってしまうのはどうなんだろう?と思ったり。

 確かに僕らは日本に生まれたけれども、日本政府と日本の国家機関と同一というか、自分たちを代表しているという意識は正直薄い。投票はできるけれど、人選は限られているし、それなりに優秀な人達が派手に間違わずに運営してくれれば十分という気がしている。なんとなく日本国籍があるし、日本の構成員であるという意識はあるかもしれないが、政府や公務員は自分達とは別の人たちという意識が強いし、ちょっと異質ささえ感じているというか実際異質なんだろう。
 現行法では少なくとも国家機関、政府や公務員は日本のためにやっているということになっているし、それは間違いじゃないんだろうけど、その日本って実際、僕らとどれだけイコールかと考えるとそんなに結びついていない。

 だから、日本という名前を背負ってるなんだかよくわからない組織があって、それが国内や世界に対してなんかやっているのだと。それで、そのために僕らは強制的に税金を取られているのだと、そういう感覚があるんじゃなかろうか?もちろん、そうじゃない意識の高い方もおられるでしょうが、ジェネラルな話としてはそこまで否定されるものではないはず。そして、そういった意識を正すべきかというとそこまでの事はない。考えるのは自由なわけで。

 国家法人説や天皇機関説はその意味ではどちらかというと一般的な感覚に近いような気がする。
 国は社団法人であって、天皇はその機能でしかない。実際、象徴に留まらず結構というかかなり働いていらっしゃいますし。

 「国家」といったときに、政府や公的機関がそれを名乗るのはいいけれど、できてないことも多いというかどうあっても国の全てを統括できるなんて無理なんてわかりきっているわけだし、その役割と働きぶりには敬意を表するところは多々あるけど、自分の中にある「日本」とあれが同一という思いは正直首をかしげてしまう。

 国家って結局、統治機構のあるなしに関わらずこの大地に生まれて似たような環境に育ってきた人達がわざわざ定義するまでもなく自分たちの中になんとなく抱いている共通意識なのだろうと思う。そして、みんながそれなりに幸せになるように組織化されていく中でその組織そのものも国家と呼ぶようになっただけの話なんだろう。

 このあたり国連の定義とやらも正直微妙に思うのだけど、それこそ遊牧民や島々を移動して暮らす人々にも仲間アイデンティティがあるように究極的には国家そのものは本来領土もいらなければ組織自体もかなり緩いもので構わないものなのだろう。心の中にあると人類学では書くけど、実際それが一番理にかなった説明である気がする。

 結局、美濃部達吉がどこまで考えて現行憲法に反対していたかはなかなか難しいというか、分野違いの自分にはどうにも入りきれない部分が結構あった。
 でも、国家法人説と天皇機関説である程度リベラルな形になっていたものを全否定されるのはどうかなぁと思わなくはない。
 これが通説であったのを否定してまで、国民国家にわざわざ固執しなきゃならなかったんだろうか?
 
 国家を法人とすると政府や公務がかなり下に見られるというか、所詮は社団法人でしかなくなるので、でかい企業とそんなに変わらなくなってしまう。これは嫌がられたのかなぁとか邪推する。気に入らない人は結構いそうだ。
 政府と機関的意味での国家と、人の心にある国家は別物だよ、という考えもとりあえず見当たらなかった。欧米ではそんなに難しい考えじゃないというか。一応アメリカは現行憲法に関わっているけど、主権云々はどこまで関わっていたのか気になる。

 正直、憲法も国が作った国の運営ルールぐらいでよいのじゃないかと思う事がある。
 人権、自然権との絡みがあるからちょっと厄介だけど、人の生存権等以前に「迷惑かけたらだめでしょ」という話で片付かないものか、というかついそう思ってしまうのは自分が素人だからというのもあるんだろうけど。
 これは若干冗談めいているところではあるけど、憲法を過剰に持ち上げすぎている原因の一つに人権や自然権の云々があるので、別に書いてもいいけれど、書かれているからと言って殊更重要度が高いかというとちょっと疑問に思わなくもない。

 それというのも過去に国家はかなり個人の権利をがっつり阻害してきた歴史があるので、それを厳しく書いて戒めなきゃならないというのはよくわかる。よくわかるんだけど、人に迷惑をかけちゃいけない意識が強いこの世界でどこまで僕らは頼らなければいけないかと考えると将来的にはなくなっていくほうが望ましいだろうなぁと思わなくもない。

 そして、そういった人に迷惑をかけない意識って、それなりの経済と技術と環境改善で実現してきたところが大きいだろうし、政治家や国家機関はそれの調整に回っている、というのが実態に近いのだろうと思う。ゆえにこういう組織に入った人たちは理想と現実のギャップに苦しむわけで、それはそれで可哀そう。

 尊敬を集める存在というのはなんとなく物を作り続けたり食料を手に入れて他人を喜ばしている人、という感覚が僕らの中にはある。
 物づくりの国だというだけに、そうやって物作っている人達に対して、ただ指示しているだけで優位な地位を得ている人は内容にもよるけれど、なんとなくよろしくないという意識もある。だから、それに合った組織作りというか、社会になればもうちょっと暮らしやすいんじゃないかなぁとか。

 こういうことをツラツラ考えながら、また明日から仕事頑張ろうと思います。







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  1. 2018/10/14(日) 19:16:13|
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魔女像の変転

長らく放置してい待っていたブログですが、ようやくリアルも落ち着きそうなので久しぶりに書いてみます。
今回は原点に立ち返るでもないですが、制作を再開したゲームViolent Witchesのもとになる魔女の像のお話について。
魔女とは何なのか?という話を大まかにしていきたいと思います。

1、そもそも魔女はなんなのかわかっていなかった。
 のっけからどうしようもないタイトルですが、これは魔女に限らず様々なファンタジーに登場する物を考えるときに重要な要素になります。
 ファンタジーと言えば「中世」とセットで語られることが多いのですが、そのほとんどは中世には確かにそれに近い要素はあったもののより漠然としていて、どういうものなのか人の間で共通の認識が持たれることはほとんどありませんでした。
 呼ばれる言葉も統一されておらず、そもそも言語自体の明確な統一も行われていない。そんな中世の世界で、魔女とはどういうものなのかを説明できる人はまずいなかった……というのは押さえておいたほうがよいかもしれません。
 「放棄に乗って空を飛ぶ」「悪魔と契約する」といった要素は近世~近代を経るにしたがって作られていったもの。もっと雑な言葉でいえば「後付け設定」みたいなものです。
 サブカル的に説明すると、ある漫画やアニメが出た当初はなかった要素が作者やファンが時間を経て交流するうちに段々と具体的な設定が盛り込まれて行って、気が付くと当初想定していなかったようなものに変わっていった……それと同じようなことが昔にも起こっていた、というだけの話なのでしょう。

2、魔女はより動物的な存在。
 魔女は中世の人々には所謂「化物」とあまり区別がされていなかったりします。
 人の形をしていますが、人とは違うもの。女性的ではあるが、必ずしも女性でもない。
 そんなものすごくあいまいな存在で、普段から恐れている森の動物達、時には人に害をなす動物とも大きく区別していなかったりもします。
 だから、魔女がなにをしたかというのもとても動物的です。単独でも行動しますが、特に害をなすものは獣だったり、虫だったり、何かと群れています。だから、魔女も群れているものだとして認識しています。
 孤独な魔女というものはいたかもしれませんが、自分の意志にせよ偶然にせよ、とりあえずそうなった存在で、そうならなければならない存在ではなかった。
 獣や虫が群れることが多いが、単独でいることもある。そのぐらいの認識なのです。
 なぜ、中世期の多くの人々がそれだけ曖昧化と言えば、明確化する必要性がないからですし、明確化する力もないからです。恐れをなすものは恐れをなすものとして、なんとなく名前をつけて避けている。それ以上探索することもなければ、する力もない。そして、害をなすので恐ろしいが生活の中では割と近くにいて、排除することもないしできないだろうと思っている。 
 共存しているが友好的でもない。害をなすことが多いが、偶然役に立ったりすることもある。
 現実に存在している獣や虫と同様に魔女も好まれずとも生活の一部ではあったのです。
 排除できれば望ましくても、排除しても仕切れるとも思えない。いたらいたでよいかもしれない。虫や獣がそうであるように。

3、魔法使いや魔術師との違い。
 魔女は魔法を習うのでしょうか?
 少なくとも中世期においてはより化物に近いので、魔女を口にする人たちはそんなことは考えていませんでした。
 多分、親がいて、その親から生まれたから、不思議な力を持っているのだろうと、そのぐらいの考えでいます。
 人の形をして、人と同じような思考をするかもしれませんが、人の考えるように魔法を使っているとも思えない。
 魔女の魔法は気まぐれで、時には自分でもコントロールしているとは思えない。
 時には魔女の意思からも独立してしまっていて、それが勝手に他の人に悪さをしたり、たまに妙な幸運を呼んだりもする。
 時に魔女本人も知らないうちに何か善とも悪とも不思議なことが周りで起こっていたりするのです。
 話せば答えてくれるかもしれないけれど、魔法を誰か魔女でない人が使えるようにしたりできるとも思えない。
 習熟する魔法を使うのは魔法使いや魔術師なのですが、そうやって習って使えるようになるにはもしかしたら親から受け継いだ何かがあったからかもしれない。
 魔法使いと魔女は別のものとして定義できるかもしれませんが、その定義をする必要性をあまり中世の人たちは考えなかったかもしれません。

4、近世・近代社会は「設定づくり」が好き。
 近世~近代という時代を考えると、人は何かと曖昧なものをきちんと明確にしたい、という欲求が特に強くなった時代と言えるかもしれません。
 もともと人は何か不思議なものを見た際に、それが何なのか決めたいという欲求に駆られる生き物でもあります。
 それ自体は先史・古代から変わらなくても、特に近代においては「あまり必要でないもの」にまですべてその決めたいという欲求が波及していったのかもしれません。
 魔女も色々と決めたところでどうしようもない。生活が良くなるわけでもない。それでも多くの人が語っているので、人は社会は決めなければいけないと思い始めた。
 魔女に限らず、怪物や妖怪と言われている姿も形もあいまいで、なんとなく呼ばれている存在も一つ一つ決められていった。
 それは何なのか、何をするのか、どういうものか、次々と設定が継ぎ足され、さらに議論を重ねて取捨択一されていく。
 時にはその設定の"矛盾"で喧嘩をしたりさえする。そんなことまで起きます。

5、魔女が孤独になった時
 魔女はいるかもしれないがいないかもしれなかった。そんな曖昧な存在でした。
 それが現実にいると定義され、誰かが魔女だとしなければいけなくなった。
 曖昧をあえて形作ったのは人と時代か。直接的な理由はわかりませんが、そうやって現実であると決められた魔女は元から好まれなかったこともあって、排除する必要があると考えられた。
 そして、そんな魔女は数はいても孤独であると決められた。なぜ孤独でなければいけないかは、誰かにとって都合がよかったからそう決まったのかもしれません。
 そして、近代という社会はそれが「できる」と思ってしまう社会でもあったようです。
 できてもできなくてもよいのかもしれないのですが。

 魔女をめぐって人が起こしたことは、ほんのささいな心の動きが原因かもしれません。
 本当に解き明かしたほうがいいのか、それともほおっておいてそれはそれでいいのか。
 特に良いとも悪いともいわず、近代の設定のなかったかつての魔女達を見つめてみるのもまた一興かもしれません。





テーマ:雑学・情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018/09/16(日) 00:42:29|
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