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The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

国家法人説と天皇機関説について雑感

 突然寒くなってきたのですが、なんとかやっております。
 ここ最近、新しい仕事をはじめたのでバタバタとしていたのですが、その中でも安心できる生活がしばらくできそうなので、少しづついろんな活動を再開していきたいと思っています。

 さて、今回、ひょんなことからちょっと興味をもって国家法人説と天皇機関説を今の日本でどう考えるか?というところでつらつらと読みつつとりとめもないことを考えていたので、メモも兼ねてここに書いておきたいと思います。

 美濃部達吉が日本国憲法を主権の存在の変更として批判していた話は有名ですが、この辺りについてのなぜだったのかなぁと思ったのが始まり。
 単純に国家法人説や天皇機関説が古い学説で、現在の国民主権と国家を結び付ける内容とはそぐわない、と言ってしまうのはどうなんだろう?と思ったり。

 確かに僕らは日本に生まれたけれども、日本政府と日本の国家機関と同一というか、自分たちを代表しているという意識は正直薄い。投票はできるけれど、人選は限られているし、それなりに優秀な人達が派手に間違わずに運営してくれれば十分という気がしている。なんとなく日本国籍があるし、日本の構成員であるという意識はあるかもしれないが、政府や公務員は自分達とは別の人たちという意識が強いし、ちょっと異質ささえ感じているというか実際異質なんだろう。
 現行法では少なくとも国家機関、政府や公務員は日本のためにやっているということになっているし、それは間違いじゃないんだろうけど、その日本って実際、僕らとどれだけイコールかと考えるとそんなに結びついていない。

 だから、日本という名前を背負ってるなんだかよくわからない組織があって、それが国内や世界に対してなんかやっているのだと。それで、そのために僕らは強制的に税金を取られているのだと、そういう感覚があるんじゃなかろうか?もちろん、そうじゃない意識の高い方もおられるでしょうが、ジェネラルな話としてはそこまで否定されるものではないはず。そして、そういった意識を正すべきかというとそこまでの事はない。考えるのは自由なわけで。

 国家法人説や天皇機関説はその意味ではどちらかというと一般的な感覚に近いような気がする。
 国は社団法人であって、天皇はその機能でしかない。実際、象徴に留まらず結構というかかなり働いていらっしゃいますし。

 「国家」といったときに、政府や公的機関がそれを名乗るのはいいけれど、できてないことも多いというかどうあっても国の全てを統括できるなんて無理なんてわかりきっているわけだし、その役割と働きぶりには敬意を表するところは多々あるけど、自分の中にある「日本」とあれが同一という思いは正直首をかしげてしまう。

 国家って結局、統治機構のあるなしに関わらずこの大地に生まれて似たような環境に育ってきた人達がわざわざ定義するまでもなく自分たちの中になんとなく抱いている共通意識なのだろうと思う。そして、みんながそれなりに幸せになるように組織化されていく中でその組織そのものも国家と呼ぶようになっただけの話なんだろう。

 このあたり国連の定義とやらも正直微妙に思うのだけど、それこそ遊牧民や島々を移動して暮らす人々にも仲間アイデンティティがあるように究極的には国家そのものは本来領土もいらなければ組織自体もかなり緩いもので構わないものなのだろう。心の中にあると人類学では書くけど、実際それが一番理にかなった説明である気がする。

 結局、美濃部達吉がどこまで考えて現行憲法に反対していたかはなかなか難しいというか、分野違いの自分にはどうにも入りきれない部分が結構あった。
 でも、国家法人説と天皇機関説である程度リベラルな形になっていたものを全否定されるのはどうかなぁと思わなくはない。
 これが通説であったのを否定してまで、国民国家にわざわざ固執しなきゃならなかったんだろうか?
 
 国家を法人とすると政府や公務がかなり下に見られるというか、所詮は社団法人でしかなくなるので、でかい企業とそんなに変わらなくなってしまう。これは嫌がられたのかなぁとか邪推する。気に入らない人は結構いそうだ。
 政府と機関的意味での国家と、人の心にある国家は別物だよ、という考えもとりあえず見当たらなかった。欧米ではそんなに難しい考えじゃないというか。一応アメリカは現行憲法に関わっているけど、主権云々はどこまで関わっていたのか気になる。

 正直、憲法も国が作った国の運営ルールぐらいでよいのじゃないかと思う事がある。
 人権、自然権との絡みがあるからちょっと厄介だけど、人の生存権等以前に「迷惑かけたらだめでしょ」という話で片付かないものか、というかついそう思ってしまうのは自分が素人だからというのもあるんだろうけど。
 これは若干冗談めいているところではあるけど、憲法を過剰に持ち上げすぎている原因の一つに人権や自然権の云々があるので、別に書いてもいいけれど、書かれているからと言って殊更重要度が高いかというとちょっと疑問に思わなくもない。

 それというのも過去に国家はかなり個人の権利をがっつり阻害してきた歴史があるので、それを厳しく書いて戒めなきゃならないというのはよくわかる。よくわかるんだけど、人に迷惑をかけちゃいけない意識が強いこの世界でどこまで僕らは頼らなければいけないかと考えると将来的にはなくなっていくほうが望ましいだろうなぁと思わなくもない。

 そして、そういった人に迷惑をかけない意識って、それなりの経済と技術と環境改善で実現してきたところが大きいだろうし、政治家や国家機関はそれの調整に回っている、というのが実態に近いのだろうと思う。ゆえにこういう組織に入った人たちは理想と現実のギャップに苦しむわけで、それはそれで可哀そう。

 尊敬を集める存在というのはなんとなく物を作り続けたり食料を手に入れて他人を喜ばしている人、という感覚が僕らの中にはある。
 物づくりの国だというだけに、そうやって物作っている人達に対して、ただ指示しているだけで優位な地位を得ている人は内容にもよるけれど、なんとなくよろしくないという意識もある。だから、それに合った組織作りというか、社会になればもうちょっと暮らしやすいんじゃないかなぁとか。

 こういうことをツラツラ考えながら、また明日から仕事頑張ろうと思います。







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  1. 2018/10/14(日) 19:16:13|
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魔女像の変転

長らく放置してい待っていたブログですが、ようやくリアルも落ち着きそうなので久しぶりに書いてみます。
今回は原点に立ち返るでもないですが、制作を再開したゲームViolent Witchesのもとになる魔女の像のお話について。
魔女とは何なのか?という話を大まかにしていきたいと思います。

1、そもそも魔女はなんなのかわかっていなかった。
 のっけからどうしようもないタイトルですが、これは魔女に限らず様々なファンタジーに登場する物を考えるときに重要な要素になります。
 ファンタジーと言えば「中世」とセットで語られることが多いのですが、そのほとんどは中世には確かにそれに近い要素はあったもののより漠然としていて、どういうものなのか人の間で共通の認識が持たれることはほとんどありませんでした。
 呼ばれる言葉も統一されておらず、そもそも言語自体の明確な統一も行われていない。そんな中世の世界で、魔女とはどういうものなのかを説明できる人はまずいなかった……というのは押さえておいたほうがよいかもしれません。
 「放棄に乗って空を飛ぶ」「悪魔と契約する」といった要素は近世~近代を経るにしたがって作られていったもの。もっと雑な言葉でいえば「後付け設定」みたいなものです。
 サブカル的に説明すると、ある漫画やアニメが出た当初はなかった要素が作者やファンが時間を経て交流するうちに段々と具体的な設定が盛り込まれて行って、気が付くと当初想定していなかったようなものに変わっていった……それと同じようなことが昔にも起こっていた、というだけの話なのでしょう。

2、魔女はより動物的な存在。
 魔女は中世の人々には所謂「化物」とあまり区別がされていなかったりします。
 人の形をしていますが、人とは違うもの。女性的ではあるが、必ずしも女性でもない。
 そんなものすごくあいまいな存在で、普段から恐れている森の動物達、時には人に害をなす動物とも大きく区別していなかったりもします。
 だから、魔女がなにをしたかというのもとても動物的です。単独でも行動しますが、特に害をなすものは獣だったり、虫だったり、何かと群れています。だから、魔女も群れているものだとして認識しています。
 孤独な魔女というものはいたかもしれませんが、自分の意志にせよ偶然にせよ、とりあえずそうなった存在で、そうならなければならない存在ではなかった。
 獣や虫が群れることが多いが、単独でいることもある。そのぐらいの認識なのです。
 なぜ、中世期の多くの人々がそれだけ曖昧化と言えば、明確化する必要性がないからですし、明確化する力もないからです。恐れをなすものは恐れをなすものとして、なんとなく名前をつけて避けている。それ以上探索することもなければ、する力もない。そして、害をなすので恐ろしいが生活の中では割と近くにいて、排除することもないしできないだろうと思っている。 
 共存しているが友好的でもない。害をなすことが多いが、偶然役に立ったりすることもある。
 現実に存在している獣や虫と同様に魔女も好まれずとも生活の一部ではあったのです。
 排除できれば望ましくても、排除しても仕切れるとも思えない。いたらいたでよいかもしれない。虫や獣がそうであるように。

3、魔法使いや魔術師との違い。
 魔女は魔法を習うのでしょうか?
 少なくとも中世期においてはより化物に近いので、魔女を口にする人たちはそんなことは考えていませんでした。
 多分、親がいて、その親から生まれたから、不思議な力を持っているのだろうと、そのぐらいの考えでいます。
 人の形をして、人と同じような思考をするかもしれませんが、人の考えるように魔法を使っているとも思えない。
 魔女の魔法は気まぐれで、時には自分でもコントロールしているとは思えない。
 時には魔女の意思からも独立してしまっていて、それが勝手に他の人に悪さをしたり、たまに妙な幸運を呼んだりもする。
 時に魔女本人も知らないうちに何か善とも悪とも不思議なことが周りで起こっていたりするのです。
 話せば答えてくれるかもしれないけれど、魔法を誰か魔女でない人が使えるようにしたりできるとも思えない。
 習熟する魔法を使うのは魔法使いや魔術師なのですが、そうやって習って使えるようになるにはもしかしたら親から受け継いだ何かがあったからかもしれない。
 魔法使いと魔女は別のものとして定義できるかもしれませんが、その定義をする必要性をあまり中世の人たちは考えなかったかもしれません。

4、近世・近代社会は「設定づくり」が好き。
 近世~近代という時代を考えると、人は何かと曖昧なものをきちんと明確にしたい、という欲求が特に強くなった時代と言えるかもしれません。
 もともと人は何か不思議なものを見た際に、それが何なのか決めたいという欲求に駆られる生き物でもあります。
 それ自体は先史・古代から変わらなくても、特に近代においては「あまり必要でないもの」にまですべてその決めたいという欲求が波及していったのかもしれません。
 魔女も色々と決めたところでどうしようもない。生活が良くなるわけでもない。それでも多くの人が語っているので、人は社会は決めなければいけないと思い始めた。
 魔女に限らず、怪物や妖怪と言われている姿も形もあいまいで、なんとなく呼ばれている存在も一つ一つ決められていった。
 それは何なのか、何をするのか、どういうものか、次々と設定が継ぎ足され、さらに議論を重ねて取捨択一されていく。
 時にはその設定の"矛盾"で喧嘩をしたりさえする。そんなことまで起きます。

5、魔女が孤独になった時
 魔女はいるかもしれないがいないかもしれなかった。そんな曖昧な存在でした。
 それが現実にいると定義され、誰かが魔女だとしなければいけなくなった。
 曖昧をあえて形作ったのは人と時代か。直接的な理由はわかりませんが、そうやって現実であると決められた魔女は元から好まれなかったこともあって、排除する必要があると考えられた。
 そして、そんな魔女は数はいても孤独であると決められた。なぜ孤独でなければいけないかは、誰かにとって都合がよかったからそう決まったのかもしれません。
 そして、近代という社会はそれが「できる」と思ってしまう社会でもあったようです。
 できてもできなくてもよいのかもしれないのですが。

 魔女をめぐって人が起こしたことは、ほんのささいな心の動きが原因かもしれません。
 本当に解き明かしたほうがいいのか、それともほおっておいてそれはそれでいいのか。
 特に良いとも悪いともいわず、近代の設定のなかったかつての魔女達を見つめてみるのもまた一興かもしれません。





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  1. 2018/09/16(日) 00:42:29|
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国家も単なる「営利団体」である。

今回は組織という存在について少しシンプル過ぎる思われる点から見た現代というものを書いていきます。

さて、国家という存在は少なくとも原始時代、文明を持たない時点から存在していると考えて問題ないと思います。
現在の発達した国からすれば、それらは単なる「民族の集団」と呼称される存在でも、それが組織的な行動をとる団体であり、その構成員が働く利益によって運営され、固有の文化を持って統率されているのであれば立派な国であると考え、それを管理する一番上の責任を持つ存在を様々な要因を踏まえて「国王」「首長」「長老」といった言葉で呼んだりします。
現代においてこのような小規模組織ととりわけ先進国と呼ばれる巨大国家はその特に大きな影響力の観点等から区別すべき存在として認識するのは一理あるにしても、程度はともあれ人間の作った組織という根本的部分ではたかだか数千年たった程度ではそれほど変化があるものではありません。
これは現代の認識においてはあまりにも乱暴すぎる考えかもしれませんが、人の根本を捉えるというところではかなり重要な視点となってきます。

さて、タイトルにある国は営利団体だ、というのは現代の特に日本ではおおよそ受け入れにくい視点だと思います。
しかし、先ほど述べたように人が暮らすためには「利益」が必要であり、これらの組織を運営するための利益が結局のところ他から享受しており、その享受先がなければ成り立たず、いかにその享受を維持し続けるかということを思考しなければ組織が成り立たないということを考えますと、他の営利組織となにが違うのか?という根幹的な疑問に突き当たります。

ちょっと品のない言い方ですが、「国家とヤクザは同業他社」という言い方があります。
これは国家の成り立ちとして、その支配する範囲における人々の生活の安全を保障する代わりに、彼らが出す利益の一部を供出するという面があったからです。
そして、その安全を脅かす事態が起こった際にはたとえ命を投げ出してでもその危険に対処することで、利益を享受する理由と、また名誉を同時に受けていました。
国家がヤクザ……もとい暴力団を規制するのは、国家の持つ暴力機構と暴力団の持つ暴力機構が支配領域で重複してしまうと利益を得られない、というのが問題として発生するという一面があります。
特に国家の支配が及びにくい地域においては暴力団がその役割を担い、またその地域にあった安全保障を担っていたのが国家の力が及んできて排除された結果同じような安全保障を受けられなくなる、という事態も起こりえます。
しかし、寄らば大樹、といいますか、基本的には国家による支配に統一するほうがより安全である可能性は高いのですが、大型化した組織では細かい安全保障の"サービス(この言い方自体もちょっと不適切かもしれませんが)"が行き届かない、ということもあるので、地域住民にとってどちらがいいかの評価が分かれることもままあります。

話が若干それましたが、このような「自警」を行う国家は特に一次大戦~二次大戦を経るにしたがって「福祉」という面を大型化/強調するように変化していきます。ですが、それは重要だと考えられたために肥大化した「自警」によりむしろ多くの人の命を奪った、という現実を突きつけられ、さらに経済の認識の発展が進むことで暴力以外で利益を生み出した人々へ還元することが国家として重要だという思考が広まったに過ぎない、ということです。
元々、国家はその構成員の働きや成果に応じて、自身に享受された利益の一部を多く還元することでより効率的な利益収入を得るという考えは古代よりあり、単にそれが様々な経験を得た結果広く多くの人にも適用されるように肥大化してきたとも言えます。
なので、「福祉」とは「がんばった人への賞与やがんばるには難しい人を手助けするボトムアップ」と言い換えてもよく、それをきちんと保証できるかによって、国家に所属しつつもよりよい働きへ進めていこうという意欲を導けると考えられ、実際、それはよく機能している面もあるのですが、利益の循環をきちんと計画立てて維持していかないと何かの事件をきっかけに破綻する可能性も内包すると指摘されていたりします。

では、実際問題として国家が構成員に対してどれだけ効率的な自身の利益の還元を行えるのか?といいますと、成り立ちと長い歴史の中で積み重ねてきたことを考えれば、ちょっと難しい面があるかもしれない、というのが実情だと思われます。
単に自警国家としての歴史が長すぎる、ということだけではなく、より根本的なところとして、そのような機能を担ってきたのは国家以上に「宗教」が役割として担っていたからです。
宗教は国家と似て影響のある範囲の構成員からの利益を得つつ、その利益の一部を自警以上にボトムアップ的な使い方をすることで国家よりも人を集めることに成功した組織形態です。
国家と宗教ではそのサービスの一部が重複するため、協力もできるかもしれませんが反目する点が大きいというのもその組織形態に原因があります。
国家と宗教は分離すべきだという考え方も、この反目を可能な限り避けるほうがよいだろうという合理的な判断に基づきます。
ですが、だから国家が宗教的なボトムアップを担えるようになるかという話とは全くの別ではないかというのが冷酷にも思えますが、実態でもあり、また宗教にも大いに問題はあるにせよ、それがどのように国家と共存してきたかについては改めて見つめなおして考えるほうがすっきりしてよいのではないかと思えてきます。

国家はその構成員を助けるために働いている、というのは事実です。
ですが、その本質が非営利であるという根拠はどこにもありませんし、巨大な国家組織の中で利益を直接得るために働く人が多くなく、またそれを現代で目の当たりにするのが難しくなってきているからこそ起きる一種の勘違いのようなものではないかと思われます。
あくまでそういう考え方もあるという程度ですので、これを読んで、自分なりの考えを改めて持っていただけるのであれば、それ以上の喜びはありません。






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  1. 2018/05/17(木) 00:44:07|
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独断と偏見の業界人感想

最近は少子化・人手不足などもあり、特に若くて能力ある人は次々に条件の良い場所へ動く時代となってきました。
私の周りでも最近は激動が続いていて、なかなか大変な反面面白くも思っており、また、私自身もどうしようかと悩みながらも激しく変化する生活に適応しようと勉強しつつ、なんとか生きている毎日です。

まぁそんな時代で私ができることなんて少ないのですが、なんだかんだで幸か不幸か取引相手が異様にバリエーション豊かな仕事をしていたので、参考にできるかなんてわからないのですが、これから職に就こうとする人、異業種に挑戦しようとしたい人に向けて、個人的に見てきた各業界の傾向とか、あと一般的に言われてることや宣伝文句の実態とまでは言いませんが勘違いされてることを書いていこうかなーと思い立ちました。

職にまつわる問題はいろいろあるのですが、違ったイメージを持ったまま入ってしまうミスマッチはかなりの不幸要素ですので、そういうのはいろいろと大人の事情で言いたくても自分から言えない人たちもいますから、それに向けて、というのもあります。

さらにさらに、思いついたまま本当にざっくばらんに書いていきますので、そのあたりはご容赦を。

[独断と偏見の業界人感想]の続きを読む

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  1. 2018/04/12(木) 23:59:04|
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イギリスで人類学をやろうと思ったきっかけ

前回の続きを書こうと思ったのですが、今回はちょっと思い出話を書いてみたいと思います。これも続くかも…?
私にとっては栄光とトラウマの両方が入り混じった複雑な体験だったので公開してこなかった上、イギリスで進化人類学を勉強する、なんてことが参考になる人はまずいないので話す必然性もなかったのですが、年月も大分経ったことだし、最近改めて自分を見つめる必要性も感じてきているので、ここで気持ちの整理も含めて書いてみたいと思います。

そもそもなんで外国に行って進化人類学なんかをやろうと思ったかということは時々人に聞かれるのですが、正直私も最初から強い決意があったわけではなく大体ぼやけた返答(興味があったのでみたいな)をしていました。恐らく振り返ってみると大きかったのは私が中学生くらいの時に町の講演会で非常に珍しい「猿人と石器」に関する話があってそれがきっかけになっていたような気がします。
元々恐竜はじめ古生物、動物、歴史が好きで本や図鑑、漫画をしこたま読んでいたので(学研さんありがとうございます)、将来これに関するお仕事をやりたい、まぁ平たく言って学者になりたいくらいのことは周りに伝えていました。それで、母親がなんだかこの講演を見つけてきて、よくわからないけど好きな話に近いだろうしせっかくだから行ってこい、と促された、というパターンだったと思います。ですが、猿人と石器なんてのは読んだことはあっても、そんなに当時の自分としてはエキサイトするトピックでもなかったといいますか、古生物的には恐竜やカンブリア生物群なんかと比べても猿人はデザイン的になんだかなーですし、歴史としても文明が発達するより大分前なのであまりにも原始的すぎる、という感覚でした。なので、やる気があまりないから開始時間にも遅れて入って後ろの席に腰かけ、終始かなり眠かった、というのが実態です。
それで、講演が終わって恒例の質問タイムになるんですが、意識の高い系の大人がなにやら猿にも思いやりの心やらなんやらを質問していて、これは子供ながらも「そりゃないよ」と思い人生初の「学術発表の場につきもののずれた語りに近い質問」を体験することになるわけです。そして、司会の方が場の空気を変えたかったのか終わった後に、「お若い方、質問はありませんか?せっかくこういう機会ですから……」と辺りを見回すわけですが、大体若い人はほとんどいない…、さらにその中でも明らかに中高生ぐらいは自分くらいしかいないのでいやがおうにも注目される。別に注目されるのは嫌いなわけじゃなく実際の先生に質問できる機会なんてめったにないわけですが、さすがに流れ的に厳しく思えたので、わざと目をそらしたのを覚えています。
そして、なにより印象的だったのがなんだか寂しそうな講演の先生で、結局その意識高い人以降に質問は続かず「他に質問がある方はこの後に直接でも…」という司会のアナウンスもあり、これは自分が何か聞くのがいいかなと余計な情がでてきたのでした。ですが、前述したとおりほとんど寝ていたような奴なので当たり前ですが内容で聞けることなんかほーとんどない。この時点で失礼にもほどがあるので情と興味の間でかなり迷ったのですが、部屋を出ていこうとした先生に恐る恐る近づいて唯一の質問「こういうのを勉強するにはどうしたらいいんですか?」をしたのでした。この質問自体も近づいた自分を慮って司会の人が例えば~みたいに言ったのをオウム返し的につかったような気もする。なんにしても、その質問に対してなんだかめんどくさそうな態度の先生が答えた「色々方法はあるけど、できる限り早く海外に行って勉強するのが一番だね」といったのが私の心に刻まれたわけです。今思えば、すごーくくだらない流れなんですが、こんなどうしょうもない流れで人生の大事な時期が決まっちゃう子も世の中にはいたのです。確かに元々他の子があまり読まない本を読みふけるちょっと変わった子ではありましたが、その方向性がより先鋭化されてしまったのでした。

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  1. 2018/02/09(金) 07:10:08|
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