The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(後編)

前編に引き続きドイツ戦車の開発年表を整理してちょっと違った視点で見ていこうというお話です。
前編では主に軽~中戦車の初期~中期頃について触れましたが、今回はやはり主力となった重戦車、そして憧れと嘲笑の混じった超重戦車などの大戦中盤~後半に向けての計画がどうだったのかを見ていきます。
整理してみると一般的にイメージしている様相とはまた別の側面が見えてくる…かも?
ドイツ戦車開発

さて、ドイツの重戦車と言えばやはりティーガー。これが開発されるまでの経緯は各所で多く語られていますが、T-34やKVに対抗する存在だったのか…というとなかなか難しいところだったりします。最近は詳しい人も増えたんですが、確かにVI号ティーガー戦車は元々も計画は30t級の突破戦車として1935年に既に計画を開始した物から繋がっています。ですので、この頃にはT-34やKVは影も形もありませんから、ティーガーの開発コンセプトそのものにソ連戦車の影響はありません。さらにその突破戦車に8.8cm砲を搭載する案自体もバルバロッサ以前に出されたものであり、さらにさらに8.8cmの長砲身型搭載案、これは後のティーガーIIへと繋がる提案なのですが、これ自体もバルバロッサの直前に提出されていますので、ティーガーIもIIもその装備はT-34とKVに遭遇した結果決められたものではございません。出現時期から考えると、ティーガーIどころかIIもというと意外に思われる方もいられるかもしれませんね。ただし、計画進行に影響が全くなかったかというとそれはまた違う話でして、1942年2月にひっそりとVK36.01計画が中止されているところが注目処。既にティーガーIの開発計画VK45.01が相当進んでおり、ティーガーIIの前身であるVK45.02すら3か月後に始まろうというときにまだVK36.01計画が残っていた、というのが不思議なのですが、これと同時期にはVK70.01(試作VII号戦車レーヴェ)、マウスに繋がる100t戦車計画案、III号長砲身搭載開始、パンターに繋がるVK30.02開始(直後にVK20.01の中止)、IV号戦車の長砲身型の生産開始というラインナップと重ねるとまた一端が見えてきます。つまり、これらの新型重戦車と中戦車のラインナップがあってVK36.01というティーガーの前身計画はその命を終えるのであり(8.8cm搭載案からここまで約1年程度時間があります)、T-34ショックがなければ、もといこれらの戦車とその新型車と戦い続ける将来がモスクワ戦で見えなければ、VK45.01いわゆるティーガーと共にVK36.01の採用された姿が現れた可能性もあるわけです。ようは広い意味でオリジナルに近いティーガー計画はT-34の出現とモスクワ戦の結果によって終わらざるを得なかったともいえます。戦況の推移は計画にも影響しており、身も蓋もないことを言ってしまえば、もしモスクワで勝てたならその後の対ソ連用新型兵器なんか作る必要はなかったのです。
では、このVK36.01の特に大きな中止の原因となったのはなにかといえばやはりVK70.01とマウスとなる100t戦車計画でしょう。T-34とKVという明らかに突出した戦車の存在から、これを更に上回る強力な戦車が43年には現れる可能性が高いとして計画されたもので、実際、その予想はある意味正しいといえば正しいのですが、若干遅れて登場したソ連重戦車は超重ではなく意外と軽量のIS-2だったというのがオチです。でも、意外と軽量にしても性能にしては凶悪でしたので、ティーガーIでもなかなか分が悪い相手。どちらにせよ新型戦車は作っておく必然性があります。こうした目で見るとレーヴェの要求仕様は決して的外れでないようにも思えてきます。確実にIS-2を葬ろうと考えるとこのぐらいの性能が必要になるだろうな…という感じです。ただ、レーヴェが不幸だったのはVK45.02計画が開始され、すぐに50t級程度では8.8cmの長砲身は収まらず70tを超えるだろうという試算が出されたことです。レーヴェは重と軽の両方が計画されたことが知られていますが、重の方は一説では90tを超えると考えられ、これではほぼマウスの100t計画に近づいてしまいます。だったら、マウスを作った方が…となるのは自明の理であり、割と計画がずるずると残りがちなドイツにしては素早く打ち切られてしまいます。結局、レーヴェの目指したロールはティーガーIIが引き継ぐことになり、これにレーヴェの搭載予定だった10.5cm砲を搭載する計画があがるのも単なる偶然ではありません。ティーガーIIはパンターII(試作止まり)との部品互換性を求められたゆえに姿が大きくIから変わっているのは知られていますが、性能・兵器としての用途としても同じ系統の戦車であるIとは異なることになり、重突破戦車であるマウスが全周カチカチのよりティーガーI的性格を持つのに対し、ティーガーIIが側面は割と薄いパンターとの間の性格を持たされたのは、その兵器が開発時点で既にドイツ軍で最も巨大で頑丈であり突破に使われる戦車ではなくなっていることが影響しています。また、ティーガーIとIIの並行生産が非常に長い(実質1年近くある)のもこの2つに求められた物が違うのだということを間接的に表しています。
もっともその重突破戦車的性格のマウス計画は知っての通り難航し、予定の43年半ばになっても試作車がようやく作られるというありさまで、更に100tどころかそれを大幅に超過する最終的には187tの怪物となってしまいました。こんな状況で計画されたのがE計画です。生産と性能の向上を行う統合計画として知られていますが、実際には軽~中のE10-25/中~重のE50-75/超重のE-100と3つに大きく分かれていて、3つそれぞれでの部品の互換性は限定的です。あくまで既存の戦車達と開発計画を整理しようという流れであり、E-100という計画が立った時点で実質マウス計画の命運は終わりに近くなり、試作車製作をアルケット社に投げ出して元凶であるポルシェとクルップには年末までに依頼中止が通達されます。ようするにE-100とは重量軽減型マウスであり、マウスの量産出現はE-100が出た時点で消滅したのです。しかし、その後も細々とアルケット社がE-100計画へのデータ取得のために組み立てと実験を行っているため非常に後世の我々にとってはわかりにくいことになっています。
E計画で一応でも車体ができていたのはE-100だけというのは逆に言えばマウスの計画がスライドしただけともいえ、他の車両にしてもE-50/75はティーガーIIの設計をほぼ使いまわすことが予想されており、E-10と25は突撃砲として統合したものです。ですが、E-10は38(t)駆逐戦車いわゆるヘッツァーの開発・生産が軌道に乗ることで消滅し、25のロールはIII号とIV号を統合する計画へと変転、ティーガーIIとパンターは各々改良発展型へ、E-100はヒトラーによって超重戦車計画自体が中止されます。E-計画というのはこうして各セクションで変形/瓦解するようにして消滅していった計画なのであり、ヘッツァー、III/IV号戦車、ティーガーII後期改良案、パンターFという存在/計画がある時点でE10-75が出現する可能性はなく、E-100は超重戦車そのものに現実味がないことから、”どんなに戦争が長引いたとしても決して成功しない”ものだといえるのだと思います。ドイツ軍秘密兵器ファンにとっては誠に残念なことではありますが…。

2回にわたって続けてきたシリーズでしたが、ここで書いた側面はあくまで大まかにそうとも考えられる、ということですので、より詳しい計画変転などは各種書籍や資料を見ていくのがいいかと思います。ゆえにつたない部分も多いとは思いますが、一般にざっくりと言われていることや変に期待してしまうような内容にちょっとでも疑問や違った着眼点を持つ一助になれば幸いです。





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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/05/10(水) 22:42:55|
  2. 軍事
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古人類学用語で桃太郎

昔々、東アフリカの辺りに、ミトコンドリア・イブとY染色体アダムがいました。

アダムは20-30万年ぐらい前を、イブは16万年前±4ぐらい前をうろうろしていると、25万年くらい前のあたりで、今までと違うホモが系統樹の上から流れてきました。

「このような今後の世界を変えるホモは見たことがない。これからの進化と種の発展を共に見守ろう。なお、16万年まえぐらいに流れてきたイダルツや40万年ぐらいにも既に同じホモを見たような気がするが、決定的証拠もないため、とりあえず置いておこう」

 アフリカ村でもしかしたら同種であるかもしれないネアンデルタールから分岐させて誕生したこのホモは、ホモ・サピエンス太郎と名づけられました。

 この時アフリカ村にはまだエレクトゥス、エレガステルといった複数の人類がいましたが、トバ・カタストロフィがきっかけと考えられるヴュルム氷期によって絶滅してしまったと考えられるようです。ホモ・サピエンス太郎にもボトルネック効果が発生しました。

 このような厳しい環境の中にありながらもホモ・サピエンス太郎はすくすくと成長し、ネアンデルタールが使うモード3石器のムステリアン文化とはまた違うモード4石器、代表的なものとしてアウリグナシアン文化を発展させました。

 技術と文化を身に着けたホモ・サピエンス太郎は「世界に広がりたい」と言い出しました。
 アダムとイブは単一起源か多地域かでもんちゃくしましたが、どちらにしても遺伝子を広める良い機会だと、ホモ・サピエンス太郎が家畜化の術を心得た後に送り出しました。

 ホモ・サピエンス太郎が歩いていると野生の狼に会いました。
「餌をくれたら従順な家来になります」
 こうして家畜化された狼は犬となりました。

 ホモ・サピエンス太郎が歩いていると野生のキジの一種であるセキショクヤケイ(など)に会いました。
「餌をくれたら卵を産んで朝を知らせる目覚ましになります」
 こうして家畜化されたキジは鶏となりました。

 このように他の野生動物たちも、例えば、オーロックスはウシに、イノシシはブタに、ムフロンはヒツジに、パサンはヤギとなって、ホモ・サピエンス太郎に従うようになりました。
 ホモ・サピエンス太郎はたくさんの動物の家畜化に成功しましたが、サルは残念ながら一部が興行用として役に立ったものの、根本的には従属できなかったので家畜となるまでには至りませんでした。

 ホモ・サピエンス太郎がモード5石器を使うようになるころにはユーラシア大陸の多くの場所でその姿を見かけることができるようになりました。

 これに困ったのはマンモスをはじめとする大型の哺乳動物たちです。一般には大きな体で他を圧倒し、毎日が宴を開いているようなイメージを持たれることが多い彼らですが、実際は氷河期末の気候変動によって生息域が狭まっており、伝染病などの諸原因の可能性もあって、その生態的地位は既に危ういものでした。
 そこに止めを指すようにやってきたのがホモ・サピエンス太郎達です。発達した石器技術、火の使用、仲間や家畜と協力できる高度な連携能力を持って狩猟にあたります。
 元々一頭当たりの出産数が少ない大型哺乳動物は狩猟に弱く、急激に数を減らして絶滅の一途を辿りました。
 彼らの多くは姿は消えましたが、ホモ・サピエンス太郎は洞窟の奥に、見事な躍動感のある絵を残しました。
 なお、もしかしたら家畜化のはじまりは大型哺乳動物の絶滅と前後するかもしれないのですが、正確な時期に関しては未だ解明には至ってはいません。
 また、原因は未だ不明ですが、欧州地方や中近東に広がっていたネアンデルタールも絶滅していました。でも、彼らの遺伝子の一部は現代のホモ・サピエンス太郎の中に残っているらしいのです。

 新石器を使うようになるころにはホモ・サピエンス太郎はユーラシアの東端である日本列島でも同様に大型哺乳動物の狩猟に励み、更にベーリング海を超えてアメリカ大陸に到達、南はオセアニア、ミクロネシアの島々にも時間はかかりましたが船を駆って進出します。
 こうして、ホモ・サピエンス太郎は世界という大きな宝を手に入れたのです。

デニソワ、デニソワ


もはやしゃぶられつくされたネタに勢いで便乗してみました。参考(パクリ元)>サッカー用語 >IT用語
元の昔話に合わせるため結構無理してます。専門用語やり過ぎても面白くなりそうになかったので、これを見てネット検索から興味を持ってくれたらいいなレベルで書いてみました(言い訳)。あとで後悔して更新したりするかも。




テーマ:進化学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/04/07(金) 20:05:21|
  2. 人類学
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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(前編)

 諸事情により、戦車関連の資料が溜まってきたので整理も兼ねて記事を書いてみます。
 国と時代で色々な種類があり、~は~の時代のものだから……とついイメージで語ってしまいがちな戦車計画。
 各所で時期については割と書いてあるのですが、実はあまり確認されないで語られるのは……理由はあるんでしょうが、せっかくなので計画開始情報も含めて図で並行・まとめてすぐ見れるようにしたら便利ではないか、と思って作ってみました。
ドイツ戦車開発

 全く特別な資料なんか使っていないのですが、こうやってまとめてみると、それっぽく聞こえる話もすぐにおや?と気がつけるので面白いです。架空戦記等創作の元にもできるかもしれません。
 例えば、ナチスドイツ政権が誕生する前に既にソ連と通じて戦車開発をしていたのは事実ですが、発足前のドイツにあるのはグロストラクトーアとライヒトラクトーア、そして、I号戦車が農業トラクターの名称で開発が開始したばかりという状態です。ここから、NbFs(ノイバウファールツォイク)、新型戦車(後のIII号戦車)、中トラクター(後のIV号戦車)と一気に種類を増やしたのはナチス政権下になってからと言えます。再軍備宣言後には重戦車計画も加わるので更に大きくなる感じですね。
また、主力対戦車用のIII号と歩兵支援用のIV号に分けたのはイギリスの巡航戦車/歩兵戦車の影響……といわれることがありますが、イギリスで実際に巡航/歩兵戦車の区分けができるのは1936年からで、その2年も前にIII号とIV号の元になる開発は既に始まっているのと、イギリス最初の巡航/歩兵戦車とほぼ同時並行で開発と生産が進んでいるので、影響があるのだとしたら、1933年までに開発されているソ連のBT戦車とT-35等多砲塔戦車もしくはフランスの騎兵/重戦車の組み合わせではないかというのが妥当じゃないかという風に思えてきます。
ソ連のドイツ戦車開発への影響というのは思いのほか無視されがちで、1924年にカマ戦車学校を設立してから実験はナチス政権の誕生する1933年までソ連国内で可能でした。この間にソ連が作ったのはT-26軽戦車、T-35多砲塔戦車、BT快速戦車というラインナップであり、もしこれらの情報が伝わっているのであればナチス政権下での計画に影響したことは想像に難くないでしょう。
 フランス戦車の影響というのも存外に無視されがちですが、ティーガー戦車に繋がる重突破戦車の構想は1935年3月、この2か月前の1月にシャールB1が生産開始されているのには注目したいです。30tという重量設定もちょうどB1と同じですので、状況としてはなかなか良い感じに合います。極東に目を移してみますと、そのシャールB1とほぼ同時期に八九式中戦車の試作が完成しています。この時点ではドイツはI号戦車の計画すらはじまっていないので、歴史の中で一瞬ですが日本はドイツよりも戦車開発で先に進んでいたのだなあ、としみじみ。逆に古い時代に作られたと擁護したくなる九七式中戦車チハの試作車完成はIII号とIV号より遅れます。初期型の性能においては優っている…のは当然で試作完成時点で比べると1年ぐらい世代が違います。これで最後まで対戦車戦闘性能及び改造型の一式砲戦車生産共々ご存知の有様でしたから、もう結果がああだったのは時代が云々とか言わずに「力を入れなかったから」と言い切った方が楽でいいんじゃないかと思えてきますね。一式砲戦車の遅れっぷりは他の対戦車に使える戦車改造自走砲達の中でも飛びぬけていますが、先駆者ともいえるIII号突撃砲の開発は早すぎると思えるぐらいに早く、III号の試作テストをしている頃には既に試作車両ができています。予想される相手であるフランスが固い要塞や戦車を持っていたりするので急ぐのも当然といえば当然か。それでも後の活躍も考えるとファインプレーと言えるぐらいに好判断だと思います。
 最初の戦車開発国であり他国に当初は輸出しまくっていたイギリス戦車のドイツ戦車開発計画への影響はいわれるほど大きくないのみたいですが、最初の巡航戦車と歩兵戦車が生産を開始したその1年後にドイツはさっそくIII号とIV号を統合した新型戦車の計画を発足させます。III号もIV号も先行量産品を作ったばかりのこの時期に随分と決断が早いと思うのですが、もしこれがイギリスでの運用状況の情報を聞いた上だと考えると面白いですね。この統合計画はVK.20へ、先行していた30t級重突破戦車はDW1からDW2を経て同時期にVK.30計画となっています。そして、前者がパンターへ、後者がティーガーへ発展するわけです。ティーガーの方が登場は先なのになぜかVI号……というよりは大体同じ時期にV号、VI号の元になる計画番号が付与されていると考えるのがすっきりしていい感じです。いつ実戦に登場するかはあくまで開発状況によるので、これを基準にしてはいけません。ドイツ軍はI―II、III+IV、V+VI、VII+VIIIというセットで戦車開発計画を立てる傾向があり、つい戦車の登場時期を見るとおかしく感じてしまいますが、計画の流れで見ると番号的に変な入れ替わりは起きていません。なお、この2つの計画開始の2か月前にソ連ではKV-1の試作車が完成しています。早い、早いよ……、元々比較的他国に比べて先行していたのですが改めて赤軍の技術を侮ってはいけない、というか冬戦争なりでメタメタだったとはいえ、ここまでの流れだけで見てもソ連の戦車開発に関して侮る要素がなく、ドイツ上層部の思考にはちょっと変なバイアスがかかり過ぎでは?と思えてきます。この辺りはあのグデーリアンに馬鹿にされても仕方がないですね……。

まだ見ていて面白そうなポイントがいくつかあるので、それは次で語っていこうかと思いますよ。




テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/03/31(金) 22:26:38|
  2. 軍事
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女性の社会進出に関して歴史をかなり大まかに振り返る

ある程度普段から様々な情報に触れている人は、日本では女性の社会進出が遅れており、高齢化による労働力不足を補うためにもより大規模な女性の社会進出を進めるべきだという話をどこかで聞いたことがあるのではないかと思います。
ですが、なぜ日本は女性の社会進出が遅れていると考えられているのか?に関して、案外それほどクリアーに書かれることはありません。実は読めば割と色んなところに書いてあるのですが、書き手の得意分野の違い、思想・文化、それ以外に周りへの配慮といったものが影響して、「なんとなくは言いたいことはわかる」レベルでお茶を濁すことが多いのではないかと感じます。

ここでは私もそういった点に関して必ずしも全ての人にとってクリアーにわかるほど上手く書けるとは思わないのですが、一つの大きな歴史的観点の流れということで書いてみたいと思います。ああ、ようするにこういうことかみたいに思うところが一つでもあれば幸いです。

1、 男女の分業が昔からだという嘘
まず歴史的観点から見ると、一般的に常識と話されている「男女による働き方の分担が昔はきっちり分かれていた」という話がほぼほぼ嘘だと言っていいというところから始まります。大体は「男は狩りをやって…」の話がでるのですが、以前、このブログでもWoman as Hunterと題して「原始時代には普通に女性も狩りやってた可能性が高い」ということを書いたことがあり、これは簡単にまとめて言えば「子供を産んで育てる役割があろうがなかろうが、基礎体力があろうがなかろうが、その日の食料が取れなければ飢えて死ぬわけで、安定した食料供給が見込めないなら動ける人間はできる限り全員で狩りをやる以外にない」というのが考えられるということです。そして、残っている当時の人骨から男女ともに全般かなり鍛え上げられた体をしていたことがわかっています(細かいことを言うとまた色々ありますが……)。少なくとも女性が家庭というものを意識するのは大体人類が農業を始めて以降だと考えられるのですが、それでも別に歴史を見なくても今日の農家を知る人ならわかることではありますが、農家の女性は普通に毎日働くのが当たり前です。体力の差があって子供ができたりして労働量が変わるかもしれませんが、働ける範囲を限定する意味はない。働ける人が働く、やれることはやってお互い助け合っていく、というだけの話なのです。

2、 なぜ社会は男女を分けるようになったのか?
単純に少数で働くレベルであればわざわざ男女の労働を限定する必然性はないのですが、これが大規模集団化すると話が変わってきます。狩猟採集をやっている時点では常に獲物を求めて移動するなどの必要があるため一部の限定した状況を除き大規模集団化することが難しかったので男女分業はそこまで考えなくてよかったのですが、農業が広まり集団が社会化・組織化していくと様相が一変します。ものすごくかいつまんで言ってしまうと「大量の男性の中に女性を入れるのが危険」という事態が発生するようになるわけです。具体的にどういう危険かはある程度大人なら想像がつく範囲だと思います。この辺りの事情を最大限ぼかすため、人によっては女性の社会進出の話はなかなか曖昧な表現に終始しなければなかったりします。数人レベルならば不要だった「犯罪の管理」が必要になり、そしてどんなに管理しても人が大量にいる以上全てを防ぐことは難しい、だったらいっそ「ばっさりわけてしまおう」、そして法律や宗教思想などを駆使して縛ろうというのが根本の発想にあります。これはこれで乱暴ではありますが、社会ができてきた頃を考えると致し方ない面もあるわけで全てを否定できるものではありませんし、正確には今だって全て解決はできていません。なんにしろ、社会や宗教が男女の関係に厳しいにはそれなりの理由があることを踏まえ、続く時代を見ていく必要があるのです。

3、女性は働けない。だったら……。
労働を男性専用にし、女性は結婚させあくまで家庭にいて特定の状況を除いて労働現場に入れなくすることで一応の治安を手に入れることはできますが、これはこれで新たな問題を引き起こします。最も大きいのは労働の担い手である男性がいなくなってしまった場合。女性は労働によって生活を支えることが社会的に困難であるので、他の男性に頼るしかありません。それでも特に戦争なんてやった日には大量の未亡人が出てしまい、頼る先もなくなってしまいます。イスラム世界で男性が複数女性と結婚できるのが許されているのは、それがある程度妥当な手段であるからに過ぎません。もし、結婚という手段で頼ることができない場合は、結婚という責任は取らない範囲で男性に頼るか(明らかにアレです)、違法行為で生活費を稼ぐしかありません。基本的に不倫禁止で1人としか結婚してはいけない宗教観念を持つ欧州各国では、この(当時の基準では)違法行為を行う女性が戦争の結果激増するという事態が多発します。例えば男装して男性と同じ現場で働く女性という話が伝わっています。もし、これが公にばれると罰されるのは女性の方だったといいますから、欧州キリスト国家が複数婚姻を認めるイスラムに比して優位性云々を語るのは、なんとも難しいところです。こんな危険を冒すぐらいならと女性や子供達で盗賊になったり、大規模化して盗賊団を結成してしまう人達まで現れます。本来、治安の安定を狙った男女の分業が逆に犯罪を増やすことになる本末転倒な状況が出てきたゆえに”変わらなければいけない”と考える人たちも多く現れます。逆にある程度複数婚姻によって安定が維持できたイスラムはそのまま続いてしまったという面もあるのですが、それはまた別途機会があれば書いていきます。

3、また男たちが戦争を始めた。しかも今度のは桁が違う……
女性未亡人の問題は深刻なものだと受け止められ、改革する話は出るものの大きくは変わりません。産業革命を機に女性労働者は大幅に増加するものの、これも制限する法律が出たりして流れはできる一方で抑止する方向にも行くという両面性を持っていました。その後、この女性の社会進出の流れをより促したと考えるのは2度の世界大戦だと考えられます。この第一次・第二次の両世界大戦がそれまでの戦争と違うのは、国家の生産力を全て動員してぶつかり合う総力戦だったことです。とにかく、大量の兵士が戦場で次々に死んでいき、兵士が使う兵器は次々に使い潰され、衣食住という生活に関わるものも毎日膨大に消費されていく。こうなってくるともはや女性を限定的な場所でだけ労働させなければいけないなどと四の五のも言っていられなくなます。もちろん、国の若い男性のほとんどが戦場に行ってしまったので、女性を工場などに大規模導入してもそんなに上記の問題にならなかった、という側面もありますが。そして、戦争が終わっても男性が大量にいなくなってしまったので、女性をある程度雇用しないと国が立ち行かない。どうしても入れにくいところには外国人を雇用して補填しよう。こうして今日の欧州の姿が形作られることになります。ある意味なし崩し的ではありますが、現代の女性の社会進出を考える時に世界大戦はどうしても無視できない要素なのです。

4、 日本とアメリカ、ちょっと違う事情
さて、ここまで書いてきた話は主に欧州方面の話です。一方でアメリカ、そして我が国日本は概ねの流れとしては共通する面はあるものの違う部分もあります。まず、近代以前の日本では婚姻でも労働でも男女における分業は世界的に見ても特に庶民では割と緩く、むしろ近代化することで欧州的な男女分業が強まったところがあります。そして、世界大戦は2次にはご存知のようにかなりの被害を受けたものの1次には極々限定的にしか参加していません。アメリカは近代に欧州からの移民によってできた国ですから欧州的なマインド部分は共通するものの、世界大戦には1次は途中参加、2次でも参加しますが他の国のように本国の多くが深刻な被害を受けたわけではありません。これにより日米は欧州国家よりも女性の社会進出に関しては少し違った色彩を帯びることになります。端的に言えば欧州国家ほどに戦後すぐには女性の社会進出が進まなかった。男性はかなりの数亡くなっていたので進出するにはしたのですが程度の違いが出てしまいます。その結果、働いた経験がありながら戦後また労働現場から外される、という事態になり、戦後の好景気で仕事が増える中でも働きが制限されるというかなり矛盾した状況に困惑することになります。一般的にはアメリカはなんとなくずっと女性の社会進出が進んでいた印象があり、それはある側面では正しい物の、実際は戦後突然家庭的な女性論が台頭し、その後にそれを打ち破ろうとする動きを経たという複雑な事情があることを忘れてはいけなかったりします。


5、 日米で女性進出が違う理由
戦後、一時的に女性の社会進出が後退したものの、再び女性の社会進出が活発となったアメリカ。対して日本は確かに戦後の女性の社会進出を促す運動自体はあり小さな改善が積み重ねられたものの、アメリカほどに強烈に進まなかったことは割と広く認識されているかと思います。欧州ほど進まないのは当然にしても、アメリカと比して進まないのはいくつか理由が考えられます。まず、そもそも戦時中もアメリカほど大規模に女性を導入していない。実は工場で働く女性は日本では未婚女性、多くは若い女学生が中心だったのですが、アメリカでは年齢や結婚しているかに関わらず工場で働いていました。また、ほぼ強制だった日本と違い、アメリカは自由主義の国でしたので大規模な宣伝により自主的に工場で働こうとするように促した。これが戦後の女性の労働意識に大きな差が出たのではないかと考えられます。まあ実際わざわざ宣伝なんかしなくても開戦直後にハワイを派手に爆撃された話が駆け巡り、危機感と不安を煽られる中夫や恋人といった近い男性がみんな戦場に行ってしまい、更に工場に行けばちゃんと賃金が出てそのお金で自由に買い物ができたとあれば、そりゃみんな行くだろうし意識も高かろうということもあるんですが。日本は反対にどうしても結婚して家を守っている女性に対しては、あの大日本帝国でも、しかも国中爆撃されて切迫しまくっているにも関わらず、ほとんど動員できなかった。前例ができるとその後も「未婚のうちは働くが、結婚したら家庭に入るものだ」という認識が固まってしまいます。この意識自体は特に古くもなければ、実際は戦時中から女性はみんな働いても全く構わなかった(むしろ流れとしては働くほうにいくだろう)にも関わらず。


終わりに
もちろん、既に日本の女性の労働状況というのは変わりつつあります。結婚した後も働く人は多くなってきました。しかし、そもそも若い人が多くないこともあって、女性の社会進出に関する全体の意識は上記のような「結婚したら家庭に」という意識が強く残っています。そして、それがどういう経緯でそうなっていったのか、なぜ欧米と違うのか、という点を単純な意識論だけに留まらない大きな流れとして捉え、今後の改善なりに結びつけていければと思っています。





テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/02/28(火) 21:18:04|
  2. ちょっと硬めな勉強のお話
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新年のあいさつと軍縮と対金剛級戦艦に関するアメリカ戦艦建造計画のお話

かなり遅くもはや1月も終わろうとしていますが、明けましておめでとうございます。
本年も各方面にて元気に活動していきたいと思っていますので、よろしくおねがいいたします。
このブログに関しても毎年書いてますが、方向性を見失いつつも1月1回更新を維持してがんばっていきたいと思います。
適当な時にお付き合いいただきませ。

今年は去年で色々あった結果ものすごく久しぶり(6~7年ぶり?)に集中してRPGなんぞを作ることになり、またひっそりとゲーム制作支援用にEntyをはじめました。
https://enty.jp/saizwong
実際、製作用の資金はあらかじめ用意していたので(元々VWのリメイクは機を見て行うつもりでいました)、ここで支援がなくても進行そのものには支障はないのですが、ちょっとでもあるとやる気も違えばもっとクォリティをあげる可能性もあがるので、よろしくお願いいたします。


さて、今年一発目の話題はちょっとした戦艦のお話です。
別に新説というわけでもなく、普通に一般書籍を何冊かかじっただけの浅いものなうえに「まぁそうだろうね」という結論で終わってしまうものなんですが、あの戦争が始まる前にな~にを各国やっていたのかという一端を垣間見れて面白かったので、紹介したいと思います。なるべく一般向けに書こうと思うので、知ってる人には用語なり表現がもどかしい所もあるかと思いますが、ご容赦を。

第二次世界大戦が勃発する前の1930年代。既に色々ときな臭い状況にはあり、この時点でお互いの不信感は頂点に達してはいたのですが、それでも外交交渉は根強く続いていました。
なんとか戦争を避けるためにそもそもそれを行う武器を減らそうという軍縮会議も継続しています。ようするに、いきなり自分から武器を捨てることは難しいので、国同士で話し合ってある程度の割合を一緒に減らしていこうというものです。
海に囲まれた日本として重要なのは大量の大砲を搭載する巨大な鉄の船「戦艦」なわけですが、これも当然軍縮の対象として挙がっています。
既に軍国主義の国ではあったものの、日本はこの戦艦に関しては軍縮会議の開始後、新規造船は行わない方針となっていました(研究や計画は将来の危機に備えて続きますが)。
これは色々と理由があるものの、一番大きいのはやはり戦艦の建造にしろ保有にしろとんでもないお金と燃料がかかるので、資源に乏しい日本としてはアメリカやイギリスといったお金持ち国に追従して戦艦を作り保有し続けるには限界があるというのが目に見えていたということがあります。今と違って経済力もそこまで高くなければ恐慌後のごたごたで景気が良くないということも忘れてはいけないですね。
そのため、軍備を持つにしても、どちらかというと小型の船や航空機を重視することになる……のですが、当時のアメリカにしてもイギリスにしても経済問題を抱えているのは変わらないので、軍事予算を減らす目的から戦艦を減らすか作るにしてもそれほど大きくないものにし、小型艦と航空機で補おうという方向は割と似たようなものです。

この軍縮は1921年のワシントン軍縮会議で船の排水量(トン数)や大砲の大きさに制限が加わり、その後の1930年にロンドン軍縮会議にて各条件がより厳しくなって枠から外れた船は廃艦となり、そして1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議へと進んでいきます。
この第二次ロンドン軍縮会議なのですが、日本としてはアメリカとイギリスに対して同等の軍備を持つこと(これまでの会議では概ね対英米7割)、そのためには全ての戦艦だけでなく、航空機を大量に運用できる新鋭の兵器として期待されていた航空母艦を全廃するというのも視野に入れていたという話も伝わっていますが、どこまで本気だったかはなんともわかりません。私としては歴史の結果から見てみればそれもよかったんじゃないかと思うのですが、国内の軍人にはかなりこの軍縮事態に反発する人も多かったらしいので難しかったのではないかとも想像します。
ともかく、日本としては軍備を縮小しつつ最大限英米との対等を実現することに固執しますが、これには英米はかなり眉を顰めます。基本的に日本は自国より少ない、これまで通りの7割程度を維持することを本会議前の予備交渉時点で要求しています。
どうにかこれまで続いてきた軍縮交渉もこの日本の固執から破たんする可能性が見えてきてしまいました。

この時、アメリカでは新型の戦艦ノースカロライナ級の建造計画が進んでいたのですが、この軍縮条約の結果が直接影響するため非常に迷います。この戦艦の建造の方針は大きく2つ。1つは既に日本は戦艦を新規で建造することはないものの、どうも今持っている古い戦艦達、特に高速を持つ金剛級戦艦、が強化改装が行われていることがわかったため、これに対抗すること(アメリカの戦艦はこれまで防御力を重視して20ノット前半しか出せない鈍足しかいませんでした)。もう一つは新たに登場した飛行機を運用する船、航空母艦に追随してこれを攻撃しようとする敵の船を撃退すること、でした。そのため、ノースカロライナ級には30ノットという巨大な戦艦としては高速が求められることになります。
さらに第二次ロンドン軍縮会議において、戦艦は主砲口径36cm砲までしか持てないことが概ね決まっていました。これまでの戦艦で最大の主砲口径は41cmでしたので、それよりも縮小することになったわけです。そのため、ノースカロライナ級も36cm砲装備として計画が進みます。41cm砲よりも36cm砲は小さく軽いので、1発当たりの威力は低く、それなら砲門数を増やそうと4連装砲塔にする計画も存在しました。実際、この条約が締結されるだろうと見込んで建造していたイギリスのキングジョージ5世級戦艦はこの36cm砲4連装砲塔を装備した戦艦として完成しており、若干遅れて進んでいた戦艦ノースカロライナの計画も同じような装備の戦艦として完成する…はずだったのですが、このわずかな遅れの時間の間に日本の固執から交渉が破綻する可能性が濃厚に見えてきたのです。

もし、日本との交渉が破綻したらどうなるのか?この場合、アメリカとイギリスの間でのみ軍縮条約が結ばれることになります。日本に配慮しなくていい分、英米は若干緩い条件で条約を結ぶことも考えていました。これは「エスカレーター条項」と呼ばれています。もし、エスカレーター条項が発動した場合、それまで36cm砲しか装備できない予定だった戦艦は41cm砲も装備できるようになり、船の大きさももっと大きくすることができます。

そんな紆余曲折の中、既に戦艦ノースカロライナの船体は船台の上で概ね組みあがっている状態でした。確かに計画の中に41cm砲を装備させた方がいいんじゃないか、という案はあったのですが、交渉は最後には締結できるだろうと予想している人も多く、36cm砲搭載案は根強く残っています。こんな状態から最終的に41cm砲搭載に推し進めたのは他でもないルーズベルト大統領の決断が大きかったと言われます。あまり他の国の首脳に比べて兵器開発に口出ししないようなイメージでしたが、やるときにはやるのかもしれません。この決定が出た時にはまだ正式に日本は脱退表明をしていなかったということで、歴史にifはありませんが、もし日本がすんでのところで第二次ロンドン軍縮会議に合意した場合、アメリカの新型戦艦が最悪廃艦になり、ルーズベルトにもいろいろと責任問題が発生していたことが考えられます。締結のデメリットは相変わらずの対英米7割維持と、数隻の戦艦の廃艦(戦艦大和も恐らく作るのは相当困難になります)、それ以外の艦艇の数と大きさの制限あたりですが、割と安いと思うのは私だけでしょうか……?
USS_North_Carolina_(BB-55)_underway_in_the_Gilbert_islands,_November_1943

さて、こうして半ば強引気味に41cm砲装備戦艦となったノースカロライナなのですが、短期間での変更は当然のように他へしわ寄せが来ます。36cm砲装備の予定だったところにより大きな砲を積むわけですから、当然重量が増します。その結果、速度は30ノットから28ノットで妥協。概ねできていた船体に装甲もそれほど施せず弱防御。仕方ないとはいえイマイチバランスの悪い戦艦として完成し、これには計画に携わっていた関係者が「当初の目的が捻じ曲げられて何がしたいのか良く分からない船になった……」とぼやいたという話が伝わります。
この経緯のため、日本も完全に脱退し、軍縮の縛りがなくなって戦争が始まることが濃厚になった時、アメリカはノースカロライナ級の改良型として同等の火力、同等の速力を持ちつつ防御力を改良したサウスダコタ級を計画。そして、金剛級をはじめとする自国より高速の日本の戦艦を圧倒でき、かつ空母の随伴も可能な本来の目的を達成し得る戦艦アイオワ級へと繋がっていくことになるのです。
一方、このようなアメリカ戦艦建造計画の流れの側で、広く知られているように日本は27-28ノットの速力を持ち、巨大な砲と重防御を誇る巨大戦艦大和の計画が進むことになるわけです。

第二次世界大戦の前には日本をはじめとする各国の果てしない軍事力増強があったというイメージがありますが、実際はどちらかというとどのように減らすのかという紆余曲折の交渉のもつれが響いています。
その結果、本当に欲しかったものではないものを持たざるを得なくなったりというのはあの巨大なアメリカであっても変わらないわけです。
若干端折り気味に書いてしまったので、もし詳しく正確に知りたい方は書籍を購入してみることをお勧めいたします。といっても大体は洋書になってしまいますが…。






テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/01/28(土) 13:01:48|
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