The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

イギリスで人類学をやろうと思ったきっかけ

前回の続きを書こうと思ったのですが、今回はちょっと思い出話を書いてみたいと思います。これも続くかも…?
私にとっては栄光とトラウマの両方が入り混じった複雑な体験だったので公開してこなかった上、イギリスで進化人類学を勉強する、なんてことが参考になる人はまずいないので話す必然性もなかったのですが、年月も大分経ったことだし、最近改めて自分を見つめる必要性も感じてきているので、ここで気持ちの整理も含めて書いてみたいと思います。

そもそもなんで外国に行って進化人類学なんかをやろうと思ったかということは時々人に聞かれるのですが、正直私も最初から強い決意があったわけではなく大体ぼやけた返答(興味があったのでみたいな)をしていました。恐らく振り返ってみると大きかったのは私が中学生くらいの時に町の講演会で非常に珍しい「猿人と石器」に関する話があってそれがきっかけになっていたような気がします。
元々恐竜はじめ古生物、動物、歴史が好きで本や図鑑、漫画をしこたま読んでいたので(学研さんありがとうございます)、将来これに関するお仕事をやりたい、まぁ平たく言って学者になりたいくらいのことは周りに伝えていました。それで、母親がなんだかこの講演を見つけてきて、よくわからないけど好きな話に近いだろうしせっかくだから行ってこい、と促された、というパターンだったと思います。ですが、猿人と石器なんてのは読んだことはあっても、そんなに当時の自分としてはエキサイトするトピックでもなかったといいますか、古生物的には恐竜やカンブリア生物群なんかと比べても猿人はデザイン的になんだかなーですし、歴史としても文明が発達するより大分前なのであまりにも原始的すぎる、という感覚でした。なので、やる気があまりないから開始時間にも遅れて入って後ろの席に腰かけ、終始かなり眠かった、というのが実態です。
それで、講演が終わって恒例の質問タイムになるんですが、意識の高い系の大人がなにやら猿にも思いやりの心やらなんやらを質問していて、これは子供ながらも「そりゃないよ」と思い人生初の「学術発表の場につきもののずれた語りに近い質問」を体験することになるわけです。そして、司会の方が場の空気を変えたかったのか終わった後に、「お若い方、質問はありませんか?せっかくこういう機会ですから……」と辺りを見回すわけですが、大体若い人はほとんどいない…、さらにその中でも明らかに中高生ぐらいは自分くらいしかいないのでいやがおうにも注目される。別に注目されるのは嫌いなわけじゃなく実際の先生に質問できる機会なんてめったにないわけですが、さすがに流れ的に厳しく思えたので、わざと目をそらしたのを覚えています。
そして、なにより印象的だったのがなんだか寂しそうな講演の先生で、結局その意識高い人以降に質問は続かず「他に質問がある方はこの後に直接でも…」という司会のアナウンスもあり、これは自分が何か聞くのがいいかなと余計な情がでてきたのでした。ですが、前述したとおりほとんど寝ていたような奴なので当たり前ですが内容で聞けることなんかほーとんどない。この時点で失礼にもほどがあるので情と興味の間でかなり迷ったのですが、部屋を出ていこうとした先生に恐る恐る近づいて唯一の質問「こういうのを勉強するにはどうしたらいいんですか?」をしたのでした。この質問自体も近づいた自分を慮って司会の人が例えば~みたいに言ったのをオウム返し的につかったような気もする。なんにしても、その質問に対してなんだかめんどくさそうな態度の先生が答えた「色々方法はあるけど、できる限り早く海外に行って勉強するのが一番だね」といったのが私の心に刻まれたわけです。今思えば、すごーくくだらない流れなんですが、こんなどうしょうもない流れで人生の大事な時期が決まっちゃう子も世の中にはいたのです。確かに元々他の子があまり読まない本を読みふけるちょっと変わった子ではありましたが、その方向性がより先鋭化されてしまったのでした。
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  1. 2018/02/09(金) 07:10:08|
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動物と人と機械(1):何が人なのか?

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。
本年は過去までの雑多もありますが、一つ大きなテーマで続きの物を書いてみたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

そのテーマですがタイトルにもあるように「動物と人と機械」です。
この3つを分けるのが非常に難しい、というお話。
なぜそうなるかといえば、それはサブタイトルにあるように「何が人なのか?」という根本的な部分にて様々な考えが交錯するからです。

そんなわけがない、形が全然違うじゃないか、というのがまず恐らくは最初に思うところ。
しかし、では人と全く同じ形の動物がいたら?また人と全く同じ形の機械がいたら?
人はそもそも動物の一種だ、というのも一理ですが、ここにおいては人と他の動物を分ける何か、がポイントです。
そして、人と少しでも違うところがあったら人ではないのか?というのが大きな命題となってきます。
なぜなら、生まれてくる人間の全てが必ずしも完全な人間の形をしていないからです。
いかに完全でないかというところには現時点では踏み込みませんが、人間の形というのは少なくともある程度の"幅"を持って我々は認識しているところがあります。
そして、その幅というのは思いのほか、人それぞれで異なっており、自分の思う「人間の形」から外れたものには排除行動ないしそれに近いものを行うことがしばしば見られます。

改めて形の幅について詳細は後ほど触れたいと思いますが、ここで押さえておきたいのは、「人という認識は個々に差があり、また、幅を持っている物」だということです。
それを一般的には決まっていてすぐにわかる物だと、端的に言ってしまえば勘違い、ないし思い込むことによって生活している。それが重大な何かだと認識しなくても実際、特に不便なく生活はできてしまうことが多いからなのですが、これは変化していく世界の中で時に凶暴な牙となって襲い掛かることもあり、その時になって人は「人の認識」というものを都度考えなおさなければならなかったのです。

次回より、この人の認識についてより深く掘り下げていきますので、こうご期待ください。




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  1. 2018/01/06(土) 17:08:03|
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「戦車と飛行機は戦争を変えない」発言の一面…戦略SLG的に見る悲しき火力と地勢の話

早いもので、今年も最後の記事となりました。
前回はHPという概念は船の戦闘を再現することから始まったんですよ、という話を書きましたが、これは個々の戦場を再現するといういわゆる「戦術級」の話でありまして、今回はそれよりも大きな「戦略級」の話を書いてみたいと思います。

さて、本格的な話に入る前にちょっと宣伝ですが、私が参加しているサークル日本戦争ゲーム開発でも「四国志大戦」という戦略級ゲームを公開しております。
四国四県から一県選んで軍事力を増強、四国統一を目指すというおバカな内容ですが、戦略級ゲームという感覚を得るにはもってこいの内容にして、何かと難しくて時間がかかる傾向のある戦略SLGの中では珍しく、初心者にもとっつきやすいぐらいシンプルで数時間もあればさくっと遊べる忙しい人にも嬉しい仕様となっております。
02.jpg
そして、嬉しい無料のダウンロードゲームですので、過去に戦略級SLGをプレイしたことがある人はともかく、まったく未経験の方はこの話を読む前にちょこっとプレイしていただけると理解がより深まって良いのではないかと思います。
私としてはこのゲームそのものではテストプレーぐらいしか関わっていないのですが、今後、このシステムで何かしら開発する…かもしれないといった感じです。


まずはおさらいとして戦術級と戦略級でどう変わるのか?を確認してみましょう。
戦術級というのは個々の戦い人間やもしくは乗り物といったものが実物の1つづつで管理され、画面には常にその中心となる人物が写っています。
これが戦略級になると上のスクリーンショットのように大きな地図を中心に考え、人はまとまった部隊といったもので管理されることになり、更に動かす基準も1地域すなわちエリアに依存します。
もっとおおざっぱに言えば、単数ないし複数の人間を中心にするか、エリアを中心にするか、という違いだと言い切ってしまってもいいと思います。
戦略級のように、エリアを中心に考えると、ここのエリアに置いた戦闘部隊の増減以上に「どこを占領しているか」がかなり重要な要素となります。戦闘部隊を中心に据えた戦術級ゲームでは被害はそのままゲーム進行に影響するので最優先目標として避けるわけですが、戦略級になると重要エリアを失うことが避けるべき最優先目標ですので、大幅な損害は優先度として低くなります。

一般的には、やはり戦術級的考え方の方が馴染みやすく、さらに言えばSLGのように部隊を指揮するよりも個々の人や近い仲間がいるゲームの方が人気が高く、戦略級の様な状況によっては個々の努力が無題に近い扱いとされてしまう考え方には反発するら覚えることがほとんどだと思います。
なぜ、こんなにがんばって実際に成績もいいのに評価がされないのか!というのは全体の戦略から見ればその努力が意味をなしていない可能性が高いのです。おっとこれは若干余談気味でした。

なにはともあれ、同時に戦略級における個々の戦闘は、ある程度相性などはあるものの最終的には敵よりも多い部隊と火力を用意して叩き潰すのが基本です。「戦いは数だよ」といいたくもなりますが、数というよりも特定箇所に効率的に投入できる「火力量」もといゲーム的によくある表現として攻撃力を合わせた数字だと思ってしまうのがいいかもしれません。
時折、少数の精鋭が大部隊を倒してしまう、という事態が起こり得たとしても、それが大きな流れを変えるまでには結びつかない、というのが戦略級のお約束みたいなものであり、また、それはゲームが参考にしている現実の戦争がそういうものだということでもあります。
とどのつまり、戦略級における良いプレイというのは「重要な拠点を維持し、効率よく火力をかき集めて、敵の弱い所へ素早く移動させて攻撃しその拠点を確保する」ということになります。そのためには一部の戦闘部隊をあえて犠牲にしたりすることも大きな流れの中では必要になります。

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ここでようやくタイトルの発言を出すのですが、これは知ってる人は良く知っているこの写真のおじさま、フランスのペタン元帥のお言葉、とよく書かれています。
二次大戦前、戦車の配備を優先させようとするド・ゴール将軍との考え方の違いがあり、結果として戦車と航空機を有効に用いたドイツ軍に戦争がはじまるとあっというまに占領されてしまうという事態となったため、一次大戦的な古い考えに固執したとしてよく批判にあがるものだったりします。
実際のところ、どうもこの2人が書いたという戦略に関する本の権利に関する縺れが大きいようなのですが、実際にペタン元帥が戦車と飛行機は戦争を変えないということに近い考えを持っていたことは事実の様であり、彼がマジノ要塞の建造に力を入れていたのもまた動かしがたい事実です。

このマジノ要塞が結局戦争に役に立たなかったことから、要塞よりも戦車と飛行機を優先させていればとかったのに、ということなのですが、ここで押さえておきたいのは装甲部隊の整備も進めたのは誰であろうペタン元帥でもあるということであり、それは細かい面では議論の余地がありますが、総合的に見れば負けた相手であるドイツよりも優秀であったということです。
要塞を優先していたのなら矛盾するじゃないかと思えてくるかもしれませんが、仮に要塞に使うリソースを戦車や航空機に割いたところでフランスの不利はあまり変わらなかったかもしれない、というのが一つの見方です。
なにより、国力的な総合面でフランスがドイツに劣っていたため、地形を利用し、人員損耗の少ない装甲部隊を整備するというのは単純に理にかなった政策だった、ということです。
そして、最も痛かったところとして、ドイツが侵入することはないかもし侵入されても突破に時間がかかると踏んでいたアルデンヌを突破してきたことなので、これは、兵器選択の間違いではなく、弱い所へ戦力を投入できなかった、ということが問題だということなのです。これを兵器選択で覆せたかもしれない、機動力のある戦車と航空機を回せれば…と考えてしまうのは後世の我々の浅はかな見誤りではないかと思えてくるのです。

特に要塞建設なのですが、これの評価が著しく低くなってしまったのもまた問題でしょう。
実は重要拠点における要塞の価値というのは機動力のある戦闘になったとしても大幅に変わったわけではありません。
戦闘部隊を守る強固なコンクリートと地下に張り巡らされ効率的に戦力を維持・補充する道は大幅に数で劣る側が長く抵抗できる有効な手段だというのはその後の戦闘を見ても明らかだからです。

では、ペタン元帥の考えていた「戦争を変える要素」とはなんだったのでしょうか?
今でこそぱっと思いつくのは核兵器ですが、あれは恐ろしいまでの破壊力を短時間で投入できるので、十分に戦争を変えたといえるでしょう。
しかし、第一次大戦とその直後だと、それは大量生産に助けられた銃であり、大砲であった、と思われます。
それまでの戦争と違い、第一次大戦での火力量というのは飛躍的に上がり、これを効率的に投入できるかどうかで勝負が決まるようになります。そして、第一次大戦で投入された戦車や飛行機は、この火力論理の一助にはなり得ても覆すものではなかったのです。
これを一次大戦時では戦車も飛行機もまだ性能が低かったからと説明する話は多いのですが、性能は敵味方お互いに切磋琢磨して上がっていくので、結局シーソーゲームの様なものでしかありません。
より決定打になるのはなによりも火力です。多少の性能差と相性は、膨大な火力の前には微々たる差でしかないのです。
大戦で優秀と言われる兵士や兵器はいくつもありますが、そこに膨大な火力が一気に注がれたらどうなるのか?という戦術的観点からだと割と面白みのない話に帰結してしまいます。
では火力で劣勢側に回るとしたら、できるとしたら地勢を味方につけるのがまず第一歩。そして、自らの拠点は確保しつつ、何かしら敵の火力を圧倒出来そうな要素を模索する、例えば、同盟国に助けてもらう、といったことを考えるわけです。もしくは、敵が見落としている重要拠点を無理をしてでも取るしかありません。

どうしても一般に馴染みがある分、実戦闘に近い部分を中心に物事というのは見てしまいますし、膨大な犠牲と国を失うということから評価を下してしまうのもやむを得ないとは思います。
ですが、もう少し違った大きな視野といいますか、本当に戦争を変えるというのは何か?という観点を持つと、言われている話とはまた違った側面が見えてくるのではと思います。







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  1. 2017/12/23(土) 13:04:04|
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HPの概念とそれが人に導入されるまで

ゲームの要素としてHPというものは誰しもが一度は目にしたことがあるものといって過言ではないでしょう。
HPはヒットポイントだとかヘルスポイントだとか、作品によってはLP=ライフポイントだとか表され様々な名称がありますが、ようするに「ユニット/プレイヤーキャラクターに決められた最大のHP数字から減らしていき0になったら行動不能ないしそれに近い状態にする」というものです。
攻撃に数字が決まっており、これに様々なステータス(防御力)や運(回避)、時にはアクション的な操作要素が絡み合って、最終的に与えるダメージが算出されるというパターンが特にスタンダード化しており、この「いかにHPを減らすか」が結局のところゲームの戦闘システムとも言えるかもしれません。
通常は特殊な条件を除けば、HPが設定されているゲームは一発で全てのHPが無くなるという事は稀になるように設定されており、数ある攻撃を繰り出して0になるように調整することになります。一発でHPが無くなるなら極端な話、生か死を特定条件に元づき決めればいい、ようは0か1の結果でしかないからです。
HPがいかに減るかを調整すれば、ほとんど影響ないダメージから、深刻なダメージ、深刻なんだけど止めを指せない、大したことないけれど他のデメリットが付与される、といったバリエーションが生まれるため、特に戦闘におけるキャラクター性を増すことに成功したシステムだといえます。
逆に、単純な生か死を条件に基づいて決めるよりも1つの戦闘が長引きがちになったため、いかにゲームテンポと良き塩梅にするかがゲームデザイナーの腕の見せ所ともなっています。

とまぁ、こんな話はゲームをそこそこにプレイした人なら基本中の基本なので、今回は「HPがゲームに導入されるきっかけ」について書いていきたいと思います。
まず、HPというゲームシステムが導入されたのはコンピューターゲームより以前のボードゲームの時代の話。それも後に人気となるファンタジーではなく古今東西の歴史的戦争を題材としたウォーゲームが最初でした。
更に言えば、HPというシステムはウォーゲームの中でも更に特殊な存在、人と人が戦うようなもので生まれたわけではありません。
なぜなら、剣で戦おうが銃で戦おうが、基本的に1発普通の人に直撃すれば戦闘を継続することが困難となるのがほとんどだからです。単に命中判定で直撃が出たら取り除く、ということで済んでいたわけですね。
そういう意味では時々ツッコミもないわけではないのですが、現在主流の人のキャラクターにHPがあって銃だろうが剣だろうが魔法だろうが直撃に何発も耐えれるような仕様は凄く不自然と言えば不自然なのです。ゲーム好きの間ではすっかり慣れてしまって疑問に思わない人がほとんどだと思うのですが、冷静に考えてみればそういうことです。
では、現実に敵の攻撃を何発も食らってもある程度戦闘継続が可能な存在とは何か…?
それは船でした。

大砲を積んで洋上で戦う船の戦いでは、運悪く1発で沈んでしまうことは稀にあるかもしれませんが、大体は何度も撃ち込まないといけません。
どれだけの攻撃に耐えられるかは船がどういう構造をしているかによっても変わってきます。
強固な装甲を持っていたり、船体に余裕があって浮力を維持することに適したりしていれば、そういった構造を持たない船よりも戦闘を継続できる可能性が高まります。
これを再現するために考えられたシステムがHPであり、更に装甲値(防御値)などを絡めた設定をしているゲームもありました。
この船のボードゲームにおける戦闘システムが中世の騎士をテーマにしたボードゲームに付与され、その結果、現代ファンタジーRPG、さらには多くの現代コンピューターゲームの基礎的なシステムとして完成することになるわけです。

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特に船の戦いと言っても、一番現代のファンタジーRPGに近いシステムを採用していたのはこの画像のような南北戦争の海戦を扱ったものが参考にされました。
南北戦争時代の海戦は装甲艦、モニター艦、旧来からの帆船を利用した輸送船、といった個性的な船がさほど大きくない艦隊を編成して戦うものでした。
この個性が、高い攻撃力と防御力を持つ戦士、防御力は低いが特殊な力が使える魔法使い、といった職業に適用され、ゲームに深みを与えることになります。

とどのつまり、現代のゲームのほとんどは人のように見えるけれど南北戦争時代の船が戦っているのと同じなのだとも考えられます。
また、人にHPを使っているという時点でゲームとしてのリアリティはあまりないのかもしれません。なにしろ、HPが採用された一番の理由は「1つの戦闘においてキャラクターに個性を出す」ことが主眼ですので、ゲーム性・ゲームテンポという面ではむしろ後退させてすらいる、とも考えられます。
ようするにHPという存在は「個性あるキャラクター同士の状況に応じて色々な姿を見せる戦闘」という点でプレイヤーを満足させるので、リアリティ・ゲーム性の両面で決して優れているわけではないが、それでも人はそれ以上に「キャラクター性を求めているから広範囲に広まった」とも言えるのです。

この一連の流れから考えると、ゲームに登場するキャラクターのHPは適度にばらけていた方がいい、また近かったり同じであったらなんらかの違う要素を加味しないとプレイヤーの不満が出やすい、ということの裏返しであるようにも思えてきます。
同じような性能だったり、既存の性能の劣化の様な兵器が不採用となってしまうように、数字上も個性が出せないキャラクターは何らかのテコ入れをできないと没個性化してしまい、必要性に疑問がついてしまいます。そのため、舞台の中の設定としてのキャラクターとゲームとしての設定におけるキャラクターが上手く噛み合うことがプレイヤーの評価につながる可能性が高いのだろうという事も見えてくるのです。

今も様々なゲームの論が語られていますが、こういった歴史の側面から見るゲームの視点というものもあります。
もし、なんらかの参考になったりしたらこれ幸いです。







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  1. 2017/11/30(木) 20:20:37|
  2. 偏りに偏った趣味のお話
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艦種ついてざっくり歴史をまとめる

最近は突然、寒くなってきましたね。
気候の変化にも関わらず、相変わらずやってることはゲーム作りと歴史の話ばっかりですが、引き続きよろしくお願いいたします。


今回はツィッターでも連続でつぶやいていたりしたのですが、軍艦の種類についてのお話です。
軍艦はまた"戦闘艦艇"とも呼ばれるので、世間的にはひとまとめに「戦艦」と呼んでしまうこともままありますが、そうすると「戦艦は昔にあった軍艦の種類の一つで今はもうない」とすぐに突っ込んでくるファンやマニアというのがままいたりします。
正直、私としては話の中で"戦う船全般"という文脈で使ってるなら、いちいち訂正なんかせんでもいいだろうという割とゆるーい気持ちでいたりするのですが、なんだかんだで定義というのは気になりますし、調べたりします。自分の知識で人の話に突っ込むかどうかととりあえず知るかどうかはまた別という事ですね。
さて、ついこういう定義というのを見るとそれが普遍的なものと感じてしまう人は多いのですが、実際のところ定義という奴はある目的があって作られていますので、目的に応じて違う言葉が使われたり、同じ言葉なのに違う意味になったりします。いわゆる専門性というのが難しいのは大体この辺りに起因していると思います。最初にいった"軍艦"にしても一般には軍隊の船全般ですが、ある時期のある国に限定すると軍隊の扱う船の中でも特定の物だけを指していたりします。なんだかややこしいなと思えてきますが、基本的に「どんな目的なのか」ということを踏まえていれば、それほど複雑なことを考えて言っているわけじゃありません。そして、人の目的という奴は状況に応じて結構コロコロと変化します。これが定義とやらが複雑だなぁと感じてしまう根本の理由だったりしますので、理由がある程度飲み込めると「なんだそんなものか」ということになりがちだというのは覚えておいて損はないでしょう。典型的な専門分野に限らず、クジラは海に出ている漁師さんにすれば同じ海から取る物なんだから魚で構いませんが、クジラを良く知りたい人にしてみればありゃ魚とは違うのだという定義になります。ようは興味の重さをどこに置くかと言い換えてもいいので、今から書くことも「そういうところに興味を持っていたんだな」ぐらいに思ってゆるーく読んでいただければいいかなと思います。

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  1. 2017/10/15(日) 13:59:50|
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