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The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

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国家も単なる「営利団体」である。

今回は組織という存在について少しシンプル過ぎる思われる点から見た現代というものを書いていきます。

さて、国家という存在は少なくとも原始時代、文明を持たない時点から存在していると考えて問題ないと思います。
現在の発達した国からすれば、それらは単なる「民族の集団」と呼称される存在でも、それが組織的な行動をとる団体であり、その構成員が働く利益によって運営され、固有の文化を持って統率されているのであれば立派な国であると考え、それを管理する一番上の責任を持つ存在を様々な要因を踏まえて「国王」「首長」「長老」といった言葉で呼んだりします。
現代においてこのような小規模組織ととりわけ先進国と呼ばれる巨大国家はその特に大きな影響力の観点等から区別すべき存在として認識するのは一理あるにしても、程度はともあれ人間の作った組織という根本的部分ではたかだか数千年たった程度ではそれほど変化があるものではありません。
これは現代の認識においてはあまりにも乱暴すぎる考えかもしれませんが、人の根本を捉えるというところではかなり重要な視点となってきます。

さて、タイトルにある国は営利団体だ、というのは現代の特に日本ではおおよそ受け入れにくい視点だと思います。
しかし、先ほど述べたように人が暮らすためには「利益」が必要であり、これらの組織を運営するための利益が結局のところ他から享受しており、その享受先がなければ成り立たず、いかにその享受を維持し続けるかということを思考しなければ組織が成り立たないということを考えますと、他の営利組織となにが違うのか?という根幹的な疑問に突き当たります。

ちょっと品のない言い方ですが、「国家とヤクザは同業他社」という言い方があります。
これは国家の成り立ちとして、その支配する範囲における人々の生活の安全を保障する代わりに、彼らが出す利益の一部を供出するという面があったからです。
そして、その安全を脅かす事態が起こった際にはたとえ命を投げ出してでもその危険に対処することで、利益を享受する理由と、また名誉を同時に受けていました。
国家がヤクザ……もとい暴力団を規制するのは、国家の持つ暴力機構と暴力団の持つ暴力機構が支配領域で重複してしまうと利益を得られない、というのが問題として発生するという一面があります。
特に国家の支配が及びにくい地域においては暴力団がその役割を担い、またその地域にあった安全保障を担っていたのが国家の力が及んできて排除された結果同じような安全保障を受けられなくなる、という事態も起こりえます。
しかし、寄らば大樹、といいますか、基本的には国家による支配に統一するほうがより安全である可能性は高いのですが、大型化した組織では細かい安全保障の"サービス(この言い方自体もちょっと不適切かもしれませんが)"が行き届かない、ということもあるので、地域住民にとってどちらがいいかの評価が分かれることもままあります。

話が若干それましたが、このような「自警」を行う国家は特に一次大戦~二次大戦を経るにしたがって「福祉」という面を大型化/強調するように変化していきます。ですが、それは重要だと考えられたために肥大化した「自警」によりむしろ多くの人の命を奪った、という現実を突きつけられ、さらに経済の認識の発展が進むことで暴力以外で利益を生み出した人々へ還元することが国家として重要だという思考が広まったに過ぎない、ということです。
元々、国家はその構成員の働きや成果に応じて、自身に享受された利益の一部を多く還元することでより効率的な利益収入を得るという考えは古代よりあり、単にそれが様々な経験を得た結果広く多くの人にも適用されるように肥大化してきたとも言えます。
なので、「福祉」とは「がんばった人への賞与やがんばるには難しい人を手助けするボトムアップ」と言い換えてもよく、それをきちんと保証できるかによって、国家に所属しつつもよりよい働きへ進めていこうという意欲を導けると考えられ、実際、それはよく機能している面もあるのですが、利益の循環をきちんと計画立てて維持していかないと何かの事件をきっかけに破綻する可能性も内包すると指摘されていたりします。

では、実際問題として国家が構成員に対してどれだけ効率的な自身の利益の還元を行えるのか?といいますと、成り立ちと長い歴史の中で積み重ねてきたことを考えれば、ちょっと難しい面があるかもしれない、というのが実情だと思われます。
単に自警国家としての歴史が長すぎる、ということだけではなく、より根本的なところとして、そのような機能を担ってきたのは国家以上に「宗教」が役割として担っていたからです。
宗教は国家と似て影響のある範囲の構成員からの利益を得つつ、その利益の一部を自警以上にボトムアップ的な使い方をすることで国家よりも人を集めることに成功した組織形態です。
国家と宗教ではそのサービスの一部が重複するため、協力もできるかもしれませんが反目する点が大きいというのもその組織形態に原因があります。
国家と宗教は分離すべきだという考え方も、この反目を可能な限り避けるほうがよいだろうという合理的な判断に基づきます。
ですが、だから国家が宗教的なボトムアップを担えるようになるかという話とは全くの別ではないかというのが冷酷にも思えますが、実態でもあり、また宗教にも大いに問題はあるにせよ、それがどのように国家と共存してきたかについては改めて見つめなおして考えるほうがすっきりしてよいのではないかと思えてきます。

国家はその構成員を助けるために働いている、というのは事実です。
ですが、その本質が非営利であるという根拠はどこにもありませんし、巨大な国家組織の中で利益を直接得るために働く人が多くなく、またそれを現代で目の当たりにするのが難しくなってきているからこそ起きる一種の勘違いのようなものではないかと思われます。
あくまでそういう考え方もあるという程度ですので、これを読んで、自分なりの考えを改めて持っていただけるのであれば、それ以上の喜びはありません。






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  1. 2018/05/17(木) 00:44:07|
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独断と偏見の業界人感想

最近は少子化・人手不足などもあり、特に若くて能力ある人は次々に条件の良い場所へ動く時代となってきました。
私の周りでも最近は激動が続いていて、なかなか大変な反面面白くも思っており、また、私自身もどうしようかと悩みながらも激しく変化する生活に適応しようと勉強しつつ、なんとか生きている毎日です。

まぁそんな時代で私ができることなんて少ないのですが、なんだかんだで幸か不幸か取引相手が異様にバリエーション豊かな仕事をしていたので、参考にできるかなんてわからないのですが、これから職に就こうとする人、異業種に挑戦しようとしたい人に向けて、個人的に見てきた各業界の傾向とか、あと一般的に言われてることや宣伝文句の実態とまでは言いませんが勘違いされてることを書いていこうかなーと思い立ちました。

職にまつわる問題はいろいろあるのですが、違ったイメージを持ったまま入ってしまうミスマッチはかなりの不幸要素ですので、そういうのはいろいろと大人の事情で言いたくても自分から言えない人たちもいますから、それに向けて、というのもあります。

さらにさらに、思いついたまま本当にざっくばらんに書いていきますので、そのあたりはご容赦を。

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  1. 2018/04/12(木) 23:59:04|
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イギリスで人類学をやろうと思ったきっかけ

前回の続きを書こうと思ったのですが、今回はちょっと思い出話を書いてみたいと思います。これも続くかも…?
私にとっては栄光とトラウマの両方が入り混じった複雑な体験だったので公開してこなかった上、イギリスで進化人類学を勉強する、なんてことが参考になる人はまずいないので話す必然性もなかったのですが、年月も大分経ったことだし、最近改めて自分を見つめる必要性も感じてきているので、ここで気持ちの整理も含めて書いてみたいと思います。

そもそもなんで外国に行って進化人類学なんかをやろうと思ったかということは時々人に聞かれるのですが、正直私も最初から強い決意があったわけではなく大体ぼやけた返答(興味があったのでみたいな)をしていました。恐らく振り返ってみると大きかったのは私が中学生くらいの時に町の講演会で非常に珍しい「猿人と石器」に関する話があってそれがきっかけになっていたような気がします。
元々恐竜はじめ古生物、動物、歴史が好きで本や図鑑、漫画をしこたま読んでいたので(学研さんありがとうございます)、将来これに関するお仕事をやりたい、まぁ平たく言って学者になりたいくらいのことは周りに伝えていました。それで、母親がなんだかこの講演を見つけてきて、よくわからないけど好きな話に近いだろうしせっかくだから行ってこい、と促された、というパターンだったと思います。ですが、猿人と石器なんてのは読んだことはあっても、そんなに当時の自分としてはエキサイトするトピックでもなかったといいますか、古生物的には恐竜やカンブリア生物群なんかと比べても猿人はデザイン的になんだかなーですし、歴史としても文明が発達するより大分前なのであまりにも原始的すぎる、という感覚でした。なので、やる気があまりないから開始時間にも遅れて入って後ろの席に腰かけ、終始かなり眠かった、というのが実態です。
それで、講演が終わって恒例の質問タイムになるんですが、意識の高い系の大人がなにやら猿にも思いやりの心やらなんやらを質問していて、これは子供ながらも「そりゃないよ」と思い人生初の「学術発表の場につきもののずれた語りに近い質問」を体験することになるわけです。そして、司会の方が場の空気を変えたかったのか終わった後に、「お若い方、質問はありませんか?せっかくこういう機会ですから……」と辺りを見回すわけですが、大体若い人はほとんどいない…、さらにその中でも明らかに中高生ぐらいは自分くらいしかいないのでいやがおうにも注目される。別に注目されるのは嫌いなわけじゃなく実際の先生に質問できる機会なんてめったにないわけですが、さすがに流れ的に厳しく思えたので、わざと目をそらしたのを覚えています。
そして、なにより印象的だったのがなんだか寂しそうな講演の先生で、結局その意識高い人以降に質問は続かず「他に質問がある方はこの後に直接でも…」という司会のアナウンスもあり、これは自分が何か聞くのがいいかなと余計な情がでてきたのでした。ですが、前述したとおりほとんど寝ていたような奴なので当たり前ですが内容で聞けることなんかほーとんどない。この時点で失礼にもほどがあるので情と興味の間でかなり迷ったのですが、部屋を出ていこうとした先生に恐る恐る近づいて唯一の質問「こういうのを勉強するにはどうしたらいいんですか?」をしたのでした。この質問自体も近づいた自分を慮って司会の人が例えば~みたいに言ったのをオウム返し的につかったような気もする。なんにしても、その質問に対してなんだかめんどくさそうな態度の先生が答えた「色々方法はあるけど、できる限り早く海外に行って勉強するのが一番だね」といったのが私の心に刻まれたわけです。今思えば、すごーくくだらない流れなんですが、こんなどうしょうもない流れで人生の大事な時期が決まっちゃう子も世の中にはいたのです。確かに元々他の子があまり読まない本を読みふけるちょっと変わった子ではありましたが、その方向性がより先鋭化されてしまったのでした。

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  1. 2018/02/09(金) 07:10:08|
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動物と人と機械(1):何が人なのか?

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。
本年は過去までの雑多もありますが、一つ大きなテーマで続きの物を書いてみたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

そのテーマですがタイトルにもあるように「動物と人と機械」です。
この3つを分けるのが非常に難しい、というお話。
なぜそうなるかといえば、それはサブタイトルにあるように「何が人なのか?」という根本的な部分にて様々な考えが交錯するからです。

そんなわけがない、形が全然違うじゃないか、というのがまず恐らくは最初に思うところ。
しかし、では人と全く同じ形の動物がいたら?また人と全く同じ形の機械がいたら?
人はそもそも動物の一種だ、というのも一理ですが、ここにおいては人と他の動物を分ける何か、がポイントです。
そして、人と少しでも違うところがあったら人ではないのか?というのが大きな命題となってきます。
なぜなら、生まれてくる人間の全てが必ずしも完全な人間の形をしていないからです。
いかに完全でないかというところには現時点では踏み込みませんが、人間の形というのは少なくともある程度の"幅"を持って我々は認識しているところがあります。
そして、その幅というのは思いのほか、人それぞれで異なっており、自分の思う「人間の形」から外れたものには排除行動ないしそれに近いものを行うことがしばしば見られます。

改めて形の幅について詳細は後ほど触れたいと思いますが、ここで押さえておきたいのは、「人という認識は個々に差があり、また、幅を持っている物」だということです。
それを一般的には決まっていてすぐにわかる物だと、端的に言ってしまえば勘違い、ないし思い込むことによって生活している。それが重大な何かだと認識しなくても実際、特に不便なく生活はできてしまうことが多いからなのですが、これは変化していく世界の中で時に凶暴な牙となって襲い掛かることもあり、その時になって人は「人の認識」というものを都度考えなおさなければならなかったのです。

次回より、この人の認識についてより深く掘り下げていきますので、こうご期待ください。




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  1. 2018/01/06(土) 17:08:03|
  2. 動物と人と機械
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「戦車と飛行機は戦争を変えない」発言の一面…戦略SLG的に見る悲しき火力と地勢の話

早いもので、今年も最後の記事となりました。
前回はHPという概念は船の戦闘を再現することから始まったんですよ、という話を書きましたが、これは個々の戦場を再現するといういわゆる「戦術級」の話でありまして、今回はそれよりも大きな「戦略級」の話を書いてみたいと思います。

さて、本格的な話に入る前にちょっと宣伝ですが、私が参加しているサークル日本戦争ゲーム開発でも「四国志大戦」という戦略級ゲームを公開しております。
四国四県から一県選んで軍事力を増強、四国統一を目指すというおバカな内容ですが、戦略級ゲームという感覚を得るにはもってこいの内容にして、何かと難しくて時間がかかる傾向のある戦略SLGの中では珍しく、初心者にもとっつきやすいぐらいシンプルで数時間もあればさくっと遊べる忙しい人にも嬉しい仕様となっております。
02.jpg
そして、嬉しい無料のダウンロードゲームですので、過去に戦略級SLGをプレイしたことがある人はともかく、まったく未経験の方はこの話を読む前にちょこっとプレイしていただけると理解がより深まって良いのではないかと思います。
私としてはこのゲームそのものではテストプレーぐらいしか関わっていないのですが、今後、このシステムで何かしら開発する…かもしれないといった感じです。


まずはおさらいとして戦術級と戦略級でどう変わるのか?を確認してみましょう。
戦術級というのは個々の戦い人間やもしくは乗り物といったものが実物の1つづつで管理され、画面には常にその中心となる人物が写っています。
これが戦略級になると上のスクリーンショットのように大きな地図を中心に考え、人はまとまった部隊といったもので管理されることになり、更に動かす基準も1地域すなわちエリアに依存します。
もっとおおざっぱに言えば、単数ないし複数の人間を中心にするか、エリアを中心にするか、という違いだと言い切ってしまってもいいと思います。
戦略級のように、エリアを中心に考えると、ここのエリアに置いた戦闘部隊の増減以上に「どこを占領しているか」がかなり重要な要素となります。戦闘部隊を中心に据えた戦術級ゲームでは被害はそのままゲーム進行に影響するので最優先目標として避けるわけですが、戦略級になると重要エリアを失うことが避けるべき最優先目標ですので、大幅な損害は優先度として低くなります。

一般的には、やはり戦術級的考え方の方が馴染みやすく、さらに言えばSLGのように部隊を指揮するよりも個々の人や近い仲間がいるゲームの方が人気が高く、戦略級の様な状況によっては個々の努力が無題に近い扱いとされてしまう考え方には反発するら覚えることがほとんどだと思います。
なぜ、こんなにがんばって実際に成績もいいのに評価がされないのか!というのは全体の戦略から見ればその努力が意味をなしていない可能性が高いのです。おっとこれは若干余談気味でした。

なにはともあれ、同時に戦略級における個々の戦闘は、ある程度相性などはあるものの最終的には敵よりも多い部隊と火力を用意して叩き潰すのが基本です。「戦いは数だよ」といいたくもなりますが、数というよりも特定箇所に効率的に投入できる「火力量」もといゲーム的によくある表現として攻撃力を合わせた数字だと思ってしまうのがいいかもしれません。
時折、少数の精鋭が大部隊を倒してしまう、という事態が起こり得たとしても、それが大きな流れを変えるまでには結びつかない、というのが戦略級のお約束みたいなものであり、また、それはゲームが参考にしている現実の戦争がそういうものだということでもあります。
とどのつまり、戦略級における良いプレイというのは「重要な拠点を維持し、効率よく火力をかき集めて、敵の弱い所へ素早く移動させて攻撃しその拠点を確保する」ということになります。そのためには一部の戦闘部隊をあえて犠牲にしたりすることも大きな流れの中では必要になります。

800px-Philippe_Pétain_(en_civil,_autour_de_1930)

ここでようやくタイトルの発言を出すのですが、これは知ってる人は良く知っているこの写真のおじさま、フランスのペタン元帥のお言葉、とよく書かれています。
二次大戦前、戦車の配備を優先させようとするド・ゴール将軍との考え方の違いがあり、結果として戦車と航空機を有効に用いたドイツ軍に戦争がはじまるとあっというまに占領されてしまうという事態となったため、一次大戦的な古い考えに固執したとしてよく批判にあがるものだったりします。
実際のところ、どうもこの2人が書いたという戦略に関する本の権利に関する縺れが大きいようなのですが、実際にペタン元帥が戦車と飛行機は戦争を変えないということに近い考えを持っていたことは事実の様であり、彼がマジノ要塞の建造に力を入れていたのもまた動かしがたい事実です。

このマジノ要塞が結局戦争に役に立たなかったことから、要塞よりも戦車と飛行機を優先させていればとかったのに、ということなのですが、ここで押さえておきたいのは装甲部隊の整備も進めたのは誰であろうペタン元帥でもあるということであり、それは細かい面では議論の余地がありますが、総合的に見れば負けた相手であるドイツよりも優秀であったということです。
要塞を優先していたのなら矛盾するじゃないかと思えてくるかもしれませんが、仮に要塞に使うリソースを戦車や航空機に割いたところでフランスの不利はあまり変わらなかったかもしれない、というのが一つの見方です。
なにより、国力的な総合面でフランスがドイツに劣っていたため、地形を利用し、人員損耗の少ない装甲部隊を整備するというのは単純に理にかなった政策だった、ということです。
そして、最も痛かったところとして、ドイツが侵入することはないかもし侵入されても突破に時間がかかると踏んでいたアルデンヌを突破してきたことなので、これは、兵器選択の間違いではなく、弱い所へ戦力を投入できなかった、ということが問題だということなのです。これを兵器選択で覆せたかもしれない、機動力のある戦車と航空機を回せれば…と考えてしまうのは後世の我々の浅はかな見誤りではないかと思えてくるのです。

特に要塞建設なのですが、これの評価が著しく低くなってしまったのもまた問題でしょう。
実は重要拠点における要塞の価値というのは機動力のある戦闘になったとしても大幅に変わったわけではありません。
戦闘部隊を守る強固なコンクリートと地下に張り巡らされ効率的に戦力を維持・補充する道は大幅に数で劣る側が長く抵抗できる有効な手段だというのはその後の戦闘を見ても明らかだからです。

では、ペタン元帥の考えていた「戦争を変える要素」とはなんだったのでしょうか?
今でこそぱっと思いつくのは核兵器ですが、あれは恐ろしいまでの破壊力を短時間で投入できるので、十分に戦争を変えたといえるでしょう。
しかし、第一次大戦とその直後だと、それは大量生産に助けられた銃であり、大砲であった、と思われます。
それまでの戦争と違い、第一次大戦での火力量というのは飛躍的に上がり、これを効率的に投入できるかどうかで勝負が決まるようになります。そして、第一次大戦で投入された戦車や飛行機は、この火力論理の一助にはなり得ても覆すものではなかったのです。
これを一次大戦時では戦車も飛行機もまだ性能が低かったからと説明する話は多いのですが、性能は敵味方お互いに切磋琢磨して上がっていくので、結局シーソーゲームの様なものでしかありません。
より決定打になるのはなによりも火力です。多少の性能差と相性は、膨大な火力の前には微々たる差でしかないのです。
大戦で優秀と言われる兵士や兵器はいくつもありますが、そこに膨大な火力が一気に注がれたらどうなるのか?という戦術的観点からだと割と面白みのない話に帰結してしまいます。
では火力で劣勢側に回るとしたら、できるとしたら地勢を味方につけるのがまず第一歩。そして、自らの拠点は確保しつつ、何かしら敵の火力を圧倒出来そうな要素を模索する、例えば、同盟国に助けてもらう、といったことを考えるわけです。もしくは、敵が見落としている重要拠点を無理をしてでも取るしかありません。

どうしても一般に馴染みがある分、実戦闘に近い部分を中心に物事というのは見てしまいますし、膨大な犠牲と国を失うということから評価を下してしまうのもやむを得ないとは思います。
ですが、もう少し違った大きな視野といいますか、本当に戦争を変えるというのは何か?という観点を持つと、言われている話とはまた違った側面が見えてくるのではと思います。







テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/12/23(土) 13:04:04|
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