The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

ファンタジーの典型は本当に「魔王と勇者」なのか?

また少し時間が空いてしまいましたが、Entyでも記載の通りゲーム制作は少しづつ進んでおり、心配事もないわけではないですが、ここまでくれば開発中止(俗にいうエターなる)にはならなくなるぐらいには制作した量はあるのでご心配なく。

さて、随分と前になるのですが私の作ったゲームのレビューに「勇者が魔王を倒すわけでもなく…」というところがユニークだと書かれた方がおり、ちょっとこのファンタジーの典型と言われる「勇者と魔王」について書いてみたいと思います。

この「勇者と魔王」、ファンタジー/RPGの典型的な構成だとして、これをネタにした作品も実に多いです。魔王を倒す使命を帯びた勇者が魔物の王たる魔王を倒しに行く。こういった話がいわゆる大前提的な使われ方をすることに異論がある人はそういないとは思います。
でも、ちょっと考えてみてください。王道といわれる「勇者と魔王」をやったファンタジー/RPG作品ってどれだけあるでしょう?
実は古今東西あんまりありません。そんなはずはない、と思う人も自分の好きなファンタジー/RPGの作品でどれだけ「勇者と魔王」があったか思い起こしてみてください。多分、あんまりないと思います。
一番、日本のファンタジー/RPG界隈で影響の大きいドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーにしても魔王を扱っている作品は限られます。強いて言うならばいわゆる典型なのは「ドラゴンクエストIII」しかないです。

そもそも、ファンタジーのストーリーはその黎明期から非常に複雑でしたので、いわゆる最後の敵、ラスボス的なものがない場合すらありますし、その最後の敵がいるにしても出自も様々です。主人公にしても、なんらかの超自然的啓示をうけたり、生まれから特別だったりすることはあっても、最初から勇者であることの方が珍しい。
一応、魔王ではなく「最後の敵:ラスボス」的要素をファンタジーの中に見出すことはありました。ですが、それが日本で魔王という固定化された概念になるのは割と最近の話だということです。魔王以上に勇者という概念は新しく、考えようによっては未だに確立していないんじゃないかと思える部分もあったりします。

では、別にファンタジー/RPGの典型でもなんでもない勇者と魔王がテンプレ化した理由はなんなのか?…それは前述のドラクエIIIの大ヒットもあるのでしょうが、革新的なアイデアであったわけでもなく、その時代といいますかタイミング的に"ネタにしやすかった"のが大きいのだと思います。元々割と複雑だったファンタジー/RPGの世界を切り詰めてシンプルにし、勧善懲悪的部分を突き詰めて頭に残りやすい用語を使用したところが多くの人に受け入れやすく、そこからバリエーションも作りやすいということで、このジャンルを広める要因となったのでしょう。

では、そんな勧善懲悪のテンプレ的なものが勇者と魔王以前はなかったのか?というとそれもちょっと違います。元々あったのは「騎士と竜」でした。これはファンタジーと並行もするのですが、古くは「騎士物語」という物語のジャンルがあり、神話世界の存在である竜と勇ましく戦う騎士、そして美しいお姫様というテンプレートが確立していました。
この「騎士と竜」テンプレは過去には「勇者と魔王」よりもポピュラーでしたので、日本で発売された初期のRPGのビジュアルとして鎧を着た騎士と竜を描くというのは一般に広めるための重要な要素でした。
ですが、ファンタジーの要素ではある物の騎士と竜は必須要素ではないので、ファンタジーが広まるにつれてその要素は特に押されることはなくなっていくのです。今更言っても遅いのですが、「竜退治はもう飽きた」と言っている頃にはとっくに騎士と竜ではなくなっている上、それ以外の要素を押し出すというのは珍しくもなんともなかったのです。*戦車を使って戦うRPGは珍しかったですけどね。

もちろん、「騎士と竜」も本当に騎士物語全体のテンプレだったかというとまたちょっと違います。これも調べてみるとなぜ騎士物語の中からその要素が抜き出されて語られるようになったんかと分かってきて面白いでしょう。
とにかく、ここで重要なのは、いわゆる典型・テンプレ的だと思っている物は全体をちょっと見てみると実はそうでもない、ということです。典型・テンプレ、そして果てには常識的なものだと多くの人が思い始めるのはそれが多く広くあることよりも、まず何かインパクトのあること、そして、ちょっと調子よく語るのに都合がよい事が重要だったりするのでしょう。

よく言われる「常識を疑う」のではなく、むしろ「常識が出来上がっていく過程を考える」研究というのを行う流れが今後できたら面白いだろうな、と思いつつ、今回は筆を置くことにいたします。




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テーマ:思うこと - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/09/03(日) 11:41:23|
  2. ちょっと硬めな勉強のお話
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イギリス旅行記

今年の夏はかつて住んでいた時から実に10年ぶりとなるイギリスの地に足を踏み入れることにしました。
旅の目的としては個人的な事が中心のため、ここに書けるような色んな人の興味を引くようなものはあまりない……と思っていたのですが、それなりに収穫もあったので、せっかくですから写真と一緒に紹介していきたいと思います。

今回は4都市、ロンドン、ポーツマス、ブリストル、リバプールを回ってきました。南周りから北上してブリテン島を半周するようなコースですね。

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宿泊施設がちょうどウェンブリースタジアムの近くだったので、スタジアム近くを見学。といっても今はプレミアリーグはシーズンオフなので人気もなく寂しい物でしたが……。

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ロンドン滞在の目的は夏に開催されているBBCプロムス。一番の目的のコンサートは逃しましたが、なんとか空いている演奏を買うことができました。曲目はベートーベンのオペラで、正直この日は移動の疲れもあって後半かなり聞いているのがつらかったのですが、由緒あるアルバートホールでオーケストラを聴くという体験でなかなか満足できるものでした。
ここだけの話、イギリス国外の住所を入力にすると弾かれるのですが、適当なイギリスの住所を入力してEチケットにすればネット購入できたので、英語に躊躇しなければ直接BBCのウェブページからの購入を挑戦してみるのはありじゃないかと思います。

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ポーツマスでの目玉はやはり書類上は唯一の現役帆船戦闘艦、戦列艦ヴィクトリー。サイズ的には後に建造される鋼鉄艦艇より小さいのですが、何層にも区切られた船体と帆船なので中央部分に機関がない(当たり前ですが)ので、あちこち見て回れる分、非常に広く感じました。なんというか船のダンジョンです。また、思った以上に天井が低いので頭上には本当に注意です。私もかなり腰を低くして移動していましたが、何度も頭をぶつけました……。

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そして、想像以上に迫力があり、内容が濃かったのがメアリーローズ館。中世期に沈没した帆船を引き上げて展示しているのですが、これが凄い迫力です。正直、これが見れたら下手な現代艦の展示は割とどうでもよくなるぐらいにw
理屈抜きにロマンティックですので、これだけを目的にポーツマスに向かっても良いのじゃないかと思います。でも、トータルチケットで全博物館を見る方が金銭的にはお得ですので、今回私はロンドンからの日帰り旅行にしましたが、ホテルをとってじっくり見る方がお勧めかもしれません。

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その後は一路ブリストルへ。ここはちょうどお祭りをやっていて、船で埋め尽くされていました。今回の旅は陸や空よりもひたすら海でしたね。
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クレーンと帆船。蒸気機関車も走っていて、新旧入り乱れた不思議な空間を作り出しています。天気はいつものイギリスの気まぐれ雨で特に2日滞在したうちの2日目はかなり降られて大変でしたが、それでも街全体に漂う雰囲気がたまらない。祭りの間たくさんの人がビール片手に屋外で談笑しているのも実にイギリス的。雨が怖くて外でビールは飲めません。

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そして、最後の街リバプールへ。ここは長々と住んでいたので色々と思い深く、10年前との違いをあちこち探しながら歩いていました。
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一番の変化はかつてはさびれまくっていた港が大きく改装されてショッピングと博物館といった綺麗な観光施設と化していたことでしょうか。昔の過去の栄光的雰囲気も悪くはなかったのですが、こうして改装されてかなりの人が訪れるようになったという事ですし、かつてこの街の将来を不安に思いながら去った身としてはむしろ喜ぶべきなのかもしれません。

そんなわけで、今回はイギリスの海を中心とした旅になりましたが、やはり船はいい、と改めて思いました。
イギリスはやはり島国であり海の国なので、船を中心にした風景が非常に映えます。
次に訪れることができるのはいつかはわかりませんが、また機会があれば行ってみたい国だと確信しました。






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  1. 2017/07/31(月) 21:19:11|
  2. ただの雑記
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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(後編)

前編に引き続きドイツ戦車の開発年表を整理してちょっと違った視点で見ていこうというお話です。
前編では主に軽~中戦車の初期~中期頃について触れましたが、今回はやはり主力となった重戦車、そして憧れと嘲笑の混じった超重戦車などの大戦中盤~後半に向けての計画がどうだったのかを見ていきます。
整理してみると一般的にイメージしている様相とはまた別の側面が見えてくる…かも?
ドイツ戦車開発

さて、ドイツの重戦車と言えばやはりティーガー。これが開発されるまでの経緯は各所で多く語られていますが、T-34やKVに対抗する存在だったのか…というとなかなか難しいところだったりします。最近は詳しい人も増えたんですが、確かにVI号ティーガー戦車は元々も計画は30t級の突破戦車として1935年に既に計画を開始した物から繋がっています。ですので、この頃にはT-34やKVは影も形もありませんから、ティーガーの開発コンセプトそのものにソ連戦車の影響はありません。さらにその突破戦車に8.8cm砲を搭載する案自体もバルバロッサ以前に出されたものであり、さらにさらに8.8cmの長砲身型搭載案、これは後のティーガーIIへと繋がる提案なのですが、これ自体もバルバロッサの直前に提出されていますので、ティーガーIもIIもその装備はT-34とKVに遭遇した結果決められたものではございません。出現時期から考えると、ティーガーIどころかIIもというと意外に思われる方もいられるかもしれませんね。ただし、計画進行に影響が全くなかったかというとそれはまた違う話でして、1942年2月にひっそりとVK36.01計画が中止されているところが注目処。既にティーガーIの開発計画VK45.01が相当進んでおり、ティーガーIIの前身であるVK45.02すら3か月後に始まろうというときにまだVK36.01計画が残っていた、というのが不思議なのですが、これと同時期にはVK70.01(試作VII号戦車レーヴェ)、マウスに繋がる100t戦車計画案、III号長砲身搭載開始、パンターに繋がるVK30.02開始(直後にVK20.01の中止)、IV号戦車の長砲身型の生産開始というラインナップと重ねるとまた一端が見えてきます。つまり、これらの新型重戦車と中戦車のラインナップがあってVK36.01というティーガーの前身計画はその命を終えるのであり(8.8cm搭載案からここまで約1年程度時間があります)、T-34ショックがなければ、もといこれらの戦車とその新型車と戦い続ける将来がモスクワ戦で見えなければ、VK45.01いわゆるティーガーと共にVK36.01の採用された姿が現れた可能性もあるわけです。ようは広い意味でオリジナルに近いティーガー計画はT-34の出現とモスクワ戦の結果によって終わらざるを得なかったともいえます。戦況の推移は計画にも影響しており、身も蓋もないことを言ってしまえば、もしモスクワで勝てたならその後の対ソ連用新型兵器なんか作る必要はなかったのです。
では、このVK36.01の特に大きな中止の原因となったのはなにかといえばやはりVK70.01とマウスとなる100t戦車計画でしょう。T-34とKVという明らかに突出した戦車の存在から、これを更に上回る強力な戦車が43年には現れる可能性が高いとして計画されたもので、実際、その予想はある意味正しいといえば正しいのですが、若干遅れて登場したソ連重戦車は超重ではなく意外と軽量のIS-2だったというのがオチです。でも、意外と軽量にしても性能にしては凶悪でしたので、ティーガーIでもなかなか分が悪い相手。どちらにせよ新型戦車は作っておく必然性があります。こうした目で見るとレーヴェの要求仕様は決して的外れでないようにも思えてきます。確実にIS-2を葬ろうと考えるとこのぐらいの性能が必要になるだろうな…という感じです。ただ、レーヴェが不幸だったのはVK45.02計画が開始され、すぐに50t級程度では8.8cmの長砲身は収まらず70tを超えるだろうという試算が出されたことです。レーヴェは重と軽の両方が計画されたことが知られていますが、重の方は一説では90tを超えると考えられ、これではほぼマウスの100t計画に近づいてしまいます。だったら、マウスを作った方が…となるのは自明の理であり、割と計画がずるずると残りがちなドイツにしては素早く打ち切られてしまいます。結局、レーヴェの目指したロールはティーガーIIが引き継ぐことになり、これにレーヴェの搭載予定だった10.5cm砲を搭載する計画があがるのも単なる偶然ではありません。ティーガーIIはパンターII(試作止まり)との部品互換性を求められたゆえに姿が大きくIから変わっているのは知られていますが、性能・兵器としての用途としても同じ系統の戦車であるIとは異なることになり、重突破戦車であるマウスが全周カチカチのよりティーガーI的性格を持つのに対し、ティーガーIIが側面は割と薄いパンターとの間の性格を持たされたのは、その兵器が開発時点で既にドイツ軍で最も巨大で頑丈であり突破に使われる戦車ではなくなっていることが影響しています。また、ティーガーIとIIの並行生産が非常に長い(実質1年近くある)のもこの2つに求められた物が違うのだということを間接的に表しています。
もっともその重突破戦車的性格のマウス計画は知っての通り難航し、予定の43年半ばになっても試作車がようやく作られるというありさまで、更に100tどころかそれを大幅に超過する最終的には187tの怪物となってしまいました。こんな状況で計画されたのがE計画です。生産と性能の向上を行う統合計画として知られていますが、実際には軽~中のE10-25/中~重のE50-75/超重のE-100と3つに大きく分かれていて、3つそれぞれでの部品の互換性は限定的です。あくまで既存の戦車達と開発計画を整理しようという流れであり、E-100という計画が立った時点で実質マウス計画の命運は終わりに近くなり、試作車製作をアルケット社に投げ出して元凶であるポルシェとクルップには年末までに依頼中止が通達されます。ようするにE-100とは重量軽減型マウスであり、マウスの量産出現はE-100が出た時点で消滅したのです。しかし、その後も細々とアルケット社がE-100計画へのデータ取得のために組み立てと実験を行っているため非常に後世の我々にとってはわかりにくいことになっています。
E計画で一応でも車体ができていたのはE-100だけというのは逆に言えばマウスの計画がスライドしただけともいえ、他の車両にしてもE-50/75はティーガーIIの設計をほぼ使いまわすことが予想されており、E-10と25は突撃砲として統合したものです。ですが、E-10は38(t)駆逐戦車いわゆるヘッツァーの開発・生産が軌道に乗ることで消滅し、25のロールはIII号とIV号を統合する計画へと変転、ティーガーIIとパンターは各々改良発展型へ、E-100はヒトラーによって超重戦車計画自体が中止されます。E-計画というのはこうして各セクションで変形/瓦解するようにして消滅していった計画なのであり、ヘッツァー、III/IV号戦車、ティーガーII後期改良案、パンターFという存在/計画がある時点でE10-75が出現する可能性はなく、E-100は超重戦車そのものに現実味がないことから、”どんなに戦争が長引いたとしても決して成功しない”ものだといえるのだと思います。ドイツ軍秘密兵器ファンにとっては誠に残念なことではありますが…。

2回にわたって続けてきたシリーズでしたが、ここで書いた側面はあくまで大まかにそうとも考えられる、ということですので、より詳しい計画変転などは各種書籍や資料を見ていくのがいいかと思います。ゆえにつたない部分も多いとは思いますが、一般にざっくりと言われていることや変に期待してしまうような内容にちょっとでも疑問や違った着眼点を持つ一助になれば幸いです。





テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/05/10(水) 22:42:55|
  2. 軍事
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古人類学用語で桃太郎

昔々、東アフリカの辺りに、ミトコンドリア・イブとY染色体アダムがいました。

アダムは20-30万年ぐらい前を、イブは16万年前±4ぐらい前をうろうろしていると、25万年くらい前のあたりで、今までと違うホモが系統樹の上から流れてきました。

「このような今後の世界を変えるホモは見たことがない。これからの進化と種の発展を共に見守ろう。なお、16万年まえぐらいに流れてきたイダルツや40万年ぐらいにも既に同じホモを見たような気がするが、決定的証拠もないため、とりあえず置いておこう」

 アフリカ村でもしかしたら同種であるかもしれないネアンデルタールから分岐させて誕生したこのホモは、ホモ・サピエンス太郎と名づけられました。

 この時アフリカ村にはまだエレクトゥス、エレガステルといった複数の人類がいましたが、トバ・カタストロフィがきっかけと考えられるヴュルム氷期によって絶滅してしまったと考えられるようです。ホモ・サピエンス太郎にもボトルネック効果が発生しました。

 このような厳しい環境の中にありながらもホモ・サピエンス太郎はすくすくと成長し、ネアンデルタールが使うモード3石器のムステリアン文化とはまた違うモード4石器、代表的なものとしてアウリグナシアン文化を発展させました。

 技術と文化を身に着けたホモ・サピエンス太郎は「世界に広がりたい」と言い出しました。
 アダムとイブは単一起源か多地域かでもんちゃくしましたが、どちらにしても遺伝子を広める良い機会だと、ホモ・サピエンス太郎が家畜化の術を心得た後に送り出しました。

 ホモ・サピエンス太郎が歩いていると野生の狼に会いました。
「餌をくれたら従順な家来になります」
 こうして家畜化された狼は犬となりました。

 ホモ・サピエンス太郎が歩いていると野生のキジの一種であるセキショクヤケイ(など)に会いました。
「餌をくれたら卵を産んで朝を知らせる目覚ましになります」
 こうして家畜化されたキジは鶏となりました。

 このように他の野生動物たちも、例えば、オーロックスはウシに、イノシシはブタに、ムフロンはヒツジに、パサンはヤギとなって、ホモ・サピエンス太郎に従うようになりました。
 ホモ・サピエンス太郎はたくさんの動物の家畜化に成功しましたが、サルは残念ながら一部が興行用として役に立ったものの、根本的には従属できなかったので家畜となるまでには至りませんでした。

 ホモ・サピエンス太郎がモード5石器を使うようになるころにはユーラシア大陸の多くの場所でその姿を見かけることができるようになりました。

 これに困ったのはマンモスをはじめとする大型の哺乳動物たちです。一般には大きな体で他を圧倒し、毎日が宴を開いているようなイメージを持たれることが多い彼らですが、実際は氷河期末の気候変動によって生息域が狭まっており、伝染病などの諸原因の可能性もあって、その生態的地位は既に危ういものでした。
 そこに止めを指すようにやってきたのがホモ・サピエンス太郎達です。発達した石器技術、火の使用、仲間や家畜と協力できる高度な連携能力を持って狩猟にあたります。
 元々一頭当たりの出産数が少ない大型哺乳動物は狩猟に弱く、急激に数を減らして絶滅の一途を辿りました。
 彼らの多くは姿は消えましたが、ホモ・サピエンス太郎は洞窟の奥に、見事な躍動感のある絵を残しました。
 なお、もしかしたら家畜化のはじまりは大型哺乳動物の絶滅と前後するかもしれないのですが、正確な時期に関しては未だ解明には至ってはいません。
 また、原因は未だ不明ですが、欧州地方や中近東に広がっていたネアンデルタールも絶滅していました。でも、彼らの遺伝子の一部は現代のホモ・サピエンス太郎の中に残っているらしいのです。

 新石器を使うようになるころにはホモ・サピエンス太郎はユーラシアの東端である日本列島でも同様に大型哺乳動物の狩猟に励み、更にベーリング海を超えてアメリカ大陸に到達、南はオセアニア、ミクロネシアの島々にも時間はかかりましたが船を駆って進出します。
 こうして、ホモ・サピエンス太郎は世界という大きな宝を手に入れたのです。

デニソワ、デニソワ


もはやしゃぶられつくされたネタに勢いで便乗してみました。参考(パクリ元)>サッカー用語 >IT用語
元の昔話に合わせるため結構無理してます。専門用語やり過ぎても面白くなりそうになかったので、これを見てネット検索から興味を持ってくれたらいいなレベルで書いてみました(言い訳)。あとで後悔して更新したりするかも。




テーマ:進化学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/04/07(金) 20:05:21|
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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(前編)

 諸事情により、戦車関連の資料が溜まってきたので整理も兼ねて記事を書いてみます。
 国と時代で色々な種類があり、~は~の時代のものだから……とついイメージで語ってしまいがちな戦車計画。
 各所で時期については割と書いてあるのですが、実はあまり確認されないで語られるのは……理由はあるんでしょうが、せっかくなので計画開始情報も含めて図で並行・まとめてすぐ見れるようにしたら便利ではないか、と思って作ってみました。
ドイツ戦車開発

 全く特別な資料なんか使っていないのですが、こうやってまとめてみると、それっぽく聞こえる話もすぐにおや?と気がつけるので面白いです。架空戦記等創作の元にもできるかもしれません。
 例えば、ナチスドイツ政権が誕生する前に既にソ連と通じて戦車開発をしていたのは事実ですが、発足前のドイツにあるのはグロストラクトーアとライヒトラクトーア、そして、I号戦車が農業トラクターの名称で開発が開始したばかりという状態です。ここから、NbFs(ノイバウファールツォイク)、新型戦車(後のIII号戦車)、中トラクター(後のIV号戦車)と一気に種類を増やしたのはナチス政権下になってからと言えます。再軍備宣言後には重戦車計画も加わるので更に大きくなる感じですね。
また、主力対戦車用のIII号と歩兵支援用のIV号に分けたのはイギリスの巡航戦車/歩兵戦車の影響……といわれることがありますが、イギリスで実際に巡航/歩兵戦車の区分けができるのは1936年からで、その2年も前にIII号とIV号の元になる開発は既に始まっているのと、イギリス最初の巡航/歩兵戦車とほぼ同時並行で開発と生産が進んでいるので、影響があるのだとしたら、1933年までに開発されているソ連のBT戦車とT-35等多砲塔戦車もしくはフランスの騎兵/重戦車の組み合わせではないかというのが妥当じゃないかという風に思えてきます。
ソ連のドイツ戦車開発への影響というのは思いのほか無視されがちで、1924年にカマ戦車学校を設立してから実験はナチス政権の誕生する1933年までソ連国内で可能でした。この間にソ連が作ったのはT-26軽戦車、T-35多砲塔戦車、BT快速戦車というラインナップであり、もしこれらの情報が伝わっているのであればナチス政権下での計画に影響したことは想像に難くないでしょう。
 フランス戦車の影響というのも存外に無視されがちですが、ティーガー戦車に繋がる重突破戦車の構想は1935年3月、この2か月前の1月にシャールB1が生産開始されているのには注目したいです。30tという重量設定もちょうどB1と同じですので、状況としてはなかなか良い感じに合います。極東に目を移してみますと、そのシャールB1とほぼ同時期に八九式中戦車の試作が完成しています。この時点ではドイツはI号戦車の計画すらはじまっていないので、歴史の中で一瞬ですが日本はドイツよりも戦車開発で先に進んでいたのだなあ、としみじみ。逆に古い時代に作られたと擁護したくなる九七式中戦車チハの試作車完成はIII号とIV号より遅れます。初期型の性能においては優っている…のは当然で試作完成時点で比べると1年ぐらい世代が違います。これで最後まで対戦車戦闘性能及び改造型の一式砲戦車生産共々ご存知の有様でしたから、もう結果がああだったのは時代が云々とか言わずに「力を入れなかったから」と言い切った方が楽でいいんじゃないかと思えてきますね。一式砲戦車の遅れっぷりは他の対戦車に使える戦車改造自走砲達の中でも飛びぬけていますが、先駆者ともいえるIII号突撃砲の開発は早すぎると思えるぐらいに早く、III号の試作テストをしている頃には既に試作車両ができています。予想される相手であるフランスが固い要塞や戦車を持っていたりするので急ぐのも当然といえば当然か。それでも後の活躍も考えるとファインプレーと言えるぐらいに好判断だと思います。
 最初の戦車開発国であり他国に当初は輸出しまくっていたイギリス戦車のドイツ戦車開発計画への影響はいわれるほど大きくないのみたいですが、最初の巡航戦車と歩兵戦車が生産を開始したその1年後にドイツはさっそくIII号とIV号を統合した新型戦車の計画を発足させます。III号もIV号も先行量産品を作ったばかりのこの時期に随分と決断が早いと思うのですが、もしこれがイギリスでの運用状況の情報を聞いた上だと考えると面白いですね。この統合計画はVK.20へ、先行していた30t級重突破戦車はDW1からDW2を経て同時期にVK.30計画となっています。そして、前者がパンターへ、後者がティーガーへ発展するわけです。ティーガーの方が登場は先なのになぜかVI号……というよりは大体同じ時期にV号、VI号の元になる計画番号が付与されていると考えるのがすっきりしていい感じです。いつ実戦に登場するかはあくまで開発状況によるので、これを基準にしてはいけません。ドイツ軍はI―II、III+IV、V+VI、VII+VIIIというセットで戦車開発計画を立てる傾向があり、つい戦車の登場時期を見るとおかしく感じてしまいますが、計画の流れで見ると番号的に変な入れ替わりは起きていません。なお、この2つの計画開始の2か月前にソ連ではKV-1の試作車が完成しています。早い、早いよ……、元々比較的他国に比べて先行していたのですが改めて赤軍の技術を侮ってはいけない、というか冬戦争なりでメタメタだったとはいえ、ここまでの流れだけで見てもソ連の戦車開発に関して侮る要素がなく、ドイツ上層部の思考にはちょっと変なバイアスがかかり過ぎでは?と思えてきます。この辺りはあのグデーリアンに馬鹿にされても仕方がないですね……。

まだ見ていて面白そうなポイントがいくつかあるので、それは次で語っていこうかと思いますよ。




テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/03/31(金) 22:26:38|
  2. 軍事
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