The Wizard of Science

人類学のこと、歴史・考古学のこと、航空機のこと、特許のこと、海外の言語や書籍、などなど、たまには横道にそれたりする長文が多めなブログです。

「戦車と飛行機は戦争を変えない」発言の一面…戦略SLG的に見る悲しき火力と地勢の話

早いもので、今年も最後の記事となりました。
前回はHPという概念は船の戦闘を再現することから始まったんですよ、という話を書きましたが、これは個々の戦場を再現するといういわゆる「戦術級」の話でありまして、今回はそれよりも大きな「戦略級」の話を書いてみたいと思います。

さて、本格的な話に入る前にちょっと宣伝ですが、私が参加しているサークル日本戦争ゲーム開発でも「四国志大戦」という戦略級ゲームを公開しております。
四国四県から一県選んで軍事力を増強、四国統一を目指すというおバカな内容ですが、戦略級ゲームという感覚を得るにはもってこいの内容にして、何かと難しくて時間がかかる傾向のある戦略SLGの中では珍しく、初心者にもとっつきやすいぐらいシンプルで数時間もあればさくっと遊べる忙しい人にも嬉しい仕様となっております。
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そして、嬉しい無料のダウンロードゲームですので、過去に戦略級SLGをプレイしたことがある人はともかく、まったく未経験の方はこの話を読む前にちょこっとプレイしていただけると理解がより深まって良いのではないかと思います。
私としてはこのゲームそのものではテストプレーぐらいしか関わっていないのですが、今後、このシステムで何かしら開発する…かもしれないといった感じです。


まずはおさらいとして戦術級と戦略級でどう変わるのか?を確認してみましょう。
戦術級というのは個々の戦い人間やもしくは乗り物といったものが実物の1つづつで管理され、画面には常にその中心となる人物が写っています。
これが戦略級になると上のスクリーンショットのように大きな地図を中心に考え、人はまとまった部隊といったもので管理されることになり、更に動かす基準も1地域すなわちエリアに依存します。
もっとおおざっぱに言えば、単数ないし複数の人間を中心にするか、エリアを中心にするか、という違いだと言い切ってしまってもいいと思います。
戦略級のように、エリアを中心に考えると、ここのエリアに置いた戦闘部隊の増減以上に「どこを占領しているか」がかなり重要な要素となります。戦闘部隊を中心に据えた戦術級ゲームでは被害はそのままゲーム進行に影響するので最優先目標として避けるわけですが、戦略級になると重要エリアを失うことが避けるべき最優先目標ですので、大幅な損害は優先度として低くなります。

一般的には、やはり戦術級的考え方の方が馴染みやすく、さらに言えばSLGのように部隊を指揮するよりも個々の人や近い仲間がいるゲームの方が人気が高く、戦略級の様な状況によっては個々の努力が無題に近い扱いとされてしまう考え方には反発するら覚えることがほとんどだと思います。
なぜ、こんなにがんばって実際に成績もいいのに評価がされないのか!というのは全体の戦略から見ればその努力が意味をなしていない可能性が高いのです。おっとこれは若干余談気味でした。

なにはともあれ、同時に戦略級における個々の戦闘は、ある程度相性などはあるものの最終的には敵よりも多い部隊と火力を用意して叩き潰すのが基本です。「戦いは数だよ」といいたくもなりますが、数というよりも特定箇所に効率的に投入できる「火力量」もといゲーム的によくある表現として攻撃力を合わせた数字だと思ってしまうのがいいかもしれません。
時折、少数の精鋭が大部隊を倒してしまう、という事態が起こり得たとしても、それが大きな流れを変えるまでには結びつかない、というのが戦略級のお約束みたいなものであり、また、それはゲームが参考にしている現実の戦争がそういうものだということでもあります。
とどのつまり、戦略級における良いプレイというのは「重要な拠点を維持し、効率よく火力をかき集めて、敵の弱い所へ素早く移動させて攻撃しその拠点を確保する」ということになります。そのためには一部の戦闘部隊をあえて犠牲にしたりすることも大きな流れの中では必要になります。

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ここでようやくタイトルの発言を出すのですが、これは知ってる人は良く知っているこの写真のおじさま、フランスのペタン元帥のお言葉、とよく書かれています。
二次大戦前、戦車の配備を優先させようとするド・ゴール将軍との考え方の違いがあり、結果として戦車と航空機を有効に用いたドイツ軍に戦争がはじまるとあっというまに占領されてしまうという事態となったため、一次大戦的な古い考えに固執したとしてよく批判にあがるものだったりします。
実際のところ、どうもこの2人が書いたという戦略に関する本の権利に関する縺れが大きいようなのですが、実際にペタン元帥が戦車と飛行機は戦争を変えないということに近い考えを持っていたことは事実の様であり、彼がマジノ要塞の建造に力を入れていたのもまた動かしがたい事実です。

このマジノ要塞が結局戦争に役に立たなかったことから、要塞よりも戦車と飛行機を優先させていればとかったのに、ということなのですが、ここで押さえておきたいのは装甲部隊の整備も進めたのは誰であろうペタン元帥でもあるということであり、それは細かい面では議論の余地がありますが、総合的に見れば負けた相手であるドイツよりも優秀であったということです。
要塞を優先していたのなら矛盾するじゃないかと思えてくるかもしれませんが、仮に要塞に使うリソースを戦車や航空機に割いたところでフランスの不利はあまり変わらなかったかもしれない、というのが一つの見方です。
なにより、国力的な総合面でフランスがドイツに劣っていたため、地形を利用し、人員損耗の少ない装甲部隊を整備するというのは単純に理にかなった政策だった、ということです。
そして、最も痛かったところとして、ドイツが侵入することはないかもし侵入されても突破に時間がかかると踏んでいたアルデンヌを突破してきたことなので、これは、兵器選択の間違いではなく、弱い所へ戦力を投入できなかった、ということが問題だということなのです。これを兵器選択で覆せたかもしれない、機動力のある戦車と航空機を回せれば…と考えてしまうのは後世の我々の浅はかな見誤りではないかと思えてくるのです。

特に要塞建設なのですが、これの評価が著しく低くなってしまったのもまた問題でしょう。
実は重要拠点における要塞の価値というのは機動力のある戦闘になったとしても大幅に変わったわけではありません。
戦闘部隊を守る強固なコンクリートと地下に張り巡らされ効率的に戦力を維持・補充する道は大幅に数で劣る側が長く抵抗できる有効な手段だというのはその後の戦闘を見ても明らかだからです。

では、ペタン元帥の考えていた「戦争を変える要素」とはなんだったのでしょうか?
今でこそぱっと思いつくのは核兵器ですが、あれは恐ろしいまでの破壊力を短時間で投入できるので、十分に戦争を変えたといえるでしょう。
しかし、第一次大戦とその直後だと、それは大量生産に助けられた銃であり、大砲であった、と思われます。
それまでの戦争と違い、第一次大戦での火力量というのは飛躍的に上がり、これを効率的に投入できるかどうかで勝負が決まるようになります。そして、第一次大戦で投入された戦車や飛行機は、この火力論理の一助にはなり得ても覆すものではなかったのです。
これを一次大戦時では戦車も飛行機もまだ性能が低かったからと説明する話は多いのですが、性能は敵味方お互いに切磋琢磨して上がっていくので、結局シーソーゲームの様なものでしかありません。
より決定打になるのはなによりも火力です。多少の性能差と相性は、膨大な火力の前には微々たる差でしかないのです。
大戦で優秀と言われる兵士や兵器はいくつもありますが、そこに膨大な火力が一気に注がれたらどうなるのか?という戦術的観点からだと割と面白みのない話に帰結してしまいます。
では火力で劣勢側に回るとしたら、できるとしたら地勢を味方につけるのがまず第一歩。そして、自らの拠点は確保しつつ、何かしら敵の火力を圧倒出来そうな要素を模索する、例えば、同盟国に助けてもらう、といったことを考えるわけです。もしくは、敵が見落としている重要拠点を無理をしてでも取るしかありません。

どうしても一般に馴染みがある分、実戦闘に近い部分を中心に物事というのは見てしまいますし、膨大な犠牲と国を失うということから評価を下してしまうのもやむを得ないとは思います。
ですが、もう少し違った大きな視野といいますか、本当に戦争を変えるというのは何か?という観点を持つと、言われている話とはまた違った側面が見えてくるのではと思います。







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  1. 2017/12/23(土) 13:04:04|
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艦種ついてざっくり歴史をまとめる

最近は突然、寒くなってきましたね。
気候の変化にも関わらず、相変わらずやってることはゲーム作りと歴史の話ばっかりですが、引き続きよろしくお願いいたします。


今回はツィッターでも連続でつぶやいていたりしたのですが、軍艦の種類についてのお話です。
軍艦はまた"戦闘艦艇"とも呼ばれるので、世間的にはひとまとめに「戦艦」と呼んでしまうこともままありますが、そうすると「戦艦は昔にあった軍艦の種類の一つで今はもうない」とすぐに突っ込んでくるファンやマニアというのがままいたりします。
正直、私としては話の中で"戦う船全般"という文脈で使ってるなら、いちいち訂正なんかせんでもいいだろうという割とゆるーい気持ちでいたりするのですが、なんだかんだで定義というのは気になりますし、調べたりします。自分の知識で人の話に突っ込むかどうかととりあえず知るかどうかはまた別という事ですね。
さて、ついこういう定義というのを見るとそれが普遍的なものと感じてしまう人は多いのですが、実際のところ定義という奴はある目的があって作られていますので、目的に応じて違う言葉が使われたり、同じ言葉なのに違う意味になったりします。いわゆる専門性というのが難しいのは大体この辺りに起因していると思います。最初にいった"軍艦"にしても一般には軍隊の船全般ですが、ある時期のある国に限定すると軍隊の扱う船の中でも特定の物だけを指していたりします。なんだかややこしいなと思えてきますが、基本的に「どんな目的なのか」ということを踏まえていれば、それほど複雑なことを考えて言っているわけじゃありません。そして、人の目的という奴は状況に応じて結構コロコロと変化します。これが定義とやらが複雑だなぁと感じてしまう根本の理由だったりしますので、理由がある程度飲み込めると「なんだそんなものか」ということになりがちだというのは覚えておいて損はないでしょう。典型的な専門分野に限らず、クジラは海に出ている漁師さんにすれば同じ海から取る物なんだから魚で構いませんが、クジラを良く知りたい人にしてみればありゃ魚とは違うのだという定義になります。ようは興味の重さをどこに置くかと言い換えてもいいので、今から書くことも「そういうところに興味を持っていたんだな」ぐらいに思ってゆるーく読んでいただければいいかなと思います。

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  1. 2017/10/15(日) 13:59:50|
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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(後編)

前編に引き続きドイツ戦車の開発年表を整理してちょっと違った視点で見ていこうというお話です。
前編では主に軽~中戦車の初期~中期頃について触れましたが、今回はやはり主力となった重戦車、そして憧れと嘲笑の混じった超重戦車などの大戦中盤~後半に向けての計画がどうだったのかを見ていきます。
整理してみると一般的にイメージしている様相とはまた別の側面が見えてくる…かも?
ドイツ戦車開発

さて、ドイツの重戦車と言えばやはりティーガー。これが開発されるまでの経緯は各所で多く語られていますが、T-34やKVに対抗する存在だったのか…というとなかなか難しいところだったりします。最近は詳しい人も増えたんですが、確かにVI号ティーガー戦車は元々も計画は30t級の突破戦車として1935年に既に計画を開始した物から繋がっています。ですので、この頃にはT-34やKVは影も形もありませんから、ティーガーの開発コンセプトそのものにソ連戦車の影響はありません。さらにその突破戦車に8.8cm砲を搭載する案自体もバルバロッサ以前に出されたものであり、さらにさらに8.8cmの長砲身型搭載案、これは後のティーガーIIへと繋がる提案なのですが、これ自体もバルバロッサの直前に提出されていますので、ティーガーIもIIもその装備はT-34とKVに遭遇した結果決められたものではございません。出現時期から考えると、ティーガーIどころかIIもというと意外に思われる方もいられるかもしれませんね。ただし、計画進行に影響が全くなかったかというとそれはまた違う話でして、1942年2月にひっそりとVK36.01計画が中止されているところが注目処。既にティーガーIの開発計画VK45.01が相当進んでおり、ティーガーIIの前身であるVK45.02すら3か月後に始まろうというときにまだVK36.01計画が残っていた、というのが不思議なのですが、これと同時期にはVK70.01(試作VII号戦車レーヴェ)、マウスに繋がる100t戦車計画案、III号長砲身搭載開始、パンターに繋がるVK30.02開始(直後にVK20.01の中止)、IV号戦車の長砲身型の生産開始というラインナップと重ねるとまた一端が見えてきます。つまり、これらの新型重戦車と中戦車のラインナップがあってVK36.01というティーガーの前身計画はその命を終えるのであり(8.8cm搭載案からここまで約1年程度時間があります)、T-34ショックがなければ、もといこれらの戦車とその新型車と戦い続ける将来がモスクワ戦で見えなければ、VK45.01いわゆるティーガーと共にVK36.01の採用された姿が現れた可能性もあるわけです。ようは広い意味でオリジナルに近いティーガー計画はT-34の出現とモスクワ戦の結果によって終わらざるを得なかったともいえます。戦況の推移は計画にも影響しており、身も蓋もないことを言ってしまえば、もしモスクワで勝てたならその後の対ソ連用新型兵器なんか作る必要はなかったのです。
では、このVK36.01の特に大きな中止の原因となったのはなにかといえばやはりVK70.01とマウスとなる100t戦車計画でしょう。T-34とKVという明らかに突出した戦車の存在から、これを更に上回る強力な戦車が43年には現れる可能性が高いとして計画されたもので、実際、その予想はある意味正しいといえば正しいのですが、若干遅れて登場したソ連重戦車は超重ではなく意外と軽量のIS-2だったというのがオチです。でも、意外と軽量にしても性能にしては凶悪でしたので、ティーガーIでもなかなか分が悪い相手。どちらにせよ新型戦車は作っておく必然性があります。こうした目で見るとレーヴェの要求仕様は決して的外れでないようにも思えてきます。確実にIS-2を葬ろうと考えるとこのぐらいの性能が必要になるだろうな…という感じです。ただ、レーヴェが不幸だったのはVK45.02計画が開始され、すぐに50t級程度では8.8cmの長砲身は収まらず70tを超えるだろうという試算が出されたことです。レーヴェは重と軽の両方が計画されたことが知られていますが、重の方は一説では90tを超えると考えられ、これではほぼマウスの100t計画に近づいてしまいます。だったら、マウスを作った方が…となるのは自明の理であり、割と計画がずるずると残りがちなドイツにしては素早く打ち切られてしまいます。結局、レーヴェの目指したロールはティーガーIIが引き継ぐことになり、これにレーヴェの搭載予定だった10.5cm砲を搭載する計画があがるのも単なる偶然ではありません。ティーガーIIはパンターII(試作止まり)との部品互換性を求められたゆえに姿が大きくIから変わっているのは知られていますが、性能・兵器としての用途としても同じ系統の戦車であるIとは異なることになり、重突破戦車であるマウスが全周カチカチのよりティーガーI的性格を持つのに対し、ティーガーIIが側面は割と薄いパンターとの間の性格を持たされたのは、その兵器が開発時点で既にドイツ軍で最も巨大で頑丈であり突破に使われる戦車ではなくなっていることが影響しています。また、ティーガーIとIIの並行生産が非常に長い(実質1年近くある)のもこの2つに求められた物が違うのだということを間接的に表しています。
もっともその重突破戦車的性格のマウス計画は知っての通り難航し、予定の43年半ばになっても試作車がようやく作られるというありさまで、更に100tどころかそれを大幅に超過する最終的には187tの怪物となってしまいました。こんな状況で計画されたのがE計画です。生産と性能の向上を行う統合計画として知られていますが、実際には軽~中のE10-25/中~重のE50-75/超重のE-100と3つに大きく分かれていて、3つそれぞれでの部品の互換性は限定的です。あくまで既存の戦車達と開発計画を整理しようという流れであり、E-100という計画が立った時点で実質マウス計画の命運は終わりに近くなり、試作車製作をアルケット社に投げ出して元凶であるポルシェとクルップには年末までに依頼中止が通達されます。ようするにE-100とは重量軽減型マウスであり、マウスの量産出現はE-100が出た時点で消滅したのです。しかし、その後も細々とアルケット社がE-100計画へのデータ取得のために組み立てと実験を行っているため非常に後世の我々にとってはわかりにくいことになっています。
E計画で一応でも車体ができていたのはE-100だけというのは逆に言えばマウスの計画がスライドしただけともいえ、他の車両にしてもE-50/75はティーガーIIの設計をほぼ使いまわすことが予想されており、E-10と25は突撃砲として統合したものです。ですが、E-10は38(t)駆逐戦車いわゆるヘッツァーの開発・生産が軌道に乗ることで消滅し、25のロールはIII号とIV号を統合する計画へと変転、ティーガーIIとパンターは各々改良発展型へ、E-100はヒトラーによって超重戦車計画自体が中止されます。E-計画というのはこうして各セクションで変形/瓦解するようにして消滅していった計画なのであり、ヘッツァー、III/IV号戦車、ティーガーII後期改良案、パンターFという存在/計画がある時点でE10-75が出現する可能性はなく、E-100は超重戦車そのものに現実味がないことから、”どんなに戦争が長引いたとしても決して成功しない”ものだといえるのだと思います。ドイツ軍秘密兵器ファンにとっては誠に残念なことではありますが…。

2回にわたって続けてきたシリーズでしたが、ここで書いた側面はあくまで大まかにそうとも考えられる、ということですので、より詳しい計画変転などは各種書籍や資料を見ていくのがいいかと思います。ゆえにつたない部分も多いとは思いますが、一般にざっくりと言われていることや変に期待してしまうような内容にちょっとでも疑問や違った着眼点を持つ一助になれば幸いです。





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  1. 2017/05/10(水) 22:42:55|
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開発計画年表を中心に見るドイツ戦車の歴史(前編)

 諸事情により、戦車関連の資料が溜まってきたので整理も兼ねて記事を書いてみます。
 国と時代で色々な種類があり、~は~の時代のものだから……とついイメージで語ってしまいがちな戦車計画。
 各所で時期については割と書いてあるのですが、実はあまり確認されないで語られるのは……理由はあるんでしょうが、せっかくなので計画開始情報も含めて図で並行・まとめてすぐ見れるようにしたら便利ではないか、と思って作ってみました。
ドイツ戦車開発

 全く特別な資料なんか使っていないのですが、こうやってまとめてみると、それっぽく聞こえる話もすぐにおや?と気がつけるので面白いです。架空戦記等創作の元にもできるかもしれません。
 例えば、ナチスドイツ政権が誕生する前に既にソ連と通じて戦車開発をしていたのは事実ですが、発足前のドイツにあるのはグロストラクトーアとライヒトラクトーア、そして、I号戦車が農業トラクターの名称で開発が開始したばかりという状態です。ここから、NbFs(ノイバウファールツォイク)、新型戦車(後のIII号戦車)、中トラクター(後のIV号戦車)と一気に種類を増やしたのはナチス政権下になってからと言えます。再軍備宣言後には重戦車計画も加わるので更に大きくなる感じですね。
また、主力対戦車用のIII号と歩兵支援用のIV号に分けたのはイギリスの巡航戦車/歩兵戦車の影響……といわれることがありますが、イギリスで実際に巡航/歩兵戦車の区分けができるのは1936年からで、その2年も前にIII号とIV号の元になる開発は既に始まっているのと、イギリス最初の巡航/歩兵戦車とほぼ同時並行で開発と生産が進んでいるので、影響があるのだとしたら、1933年までに開発されているソ連のBT戦車とT-35等多砲塔戦車もしくはフランスの騎兵/重戦車の組み合わせではないかというのが妥当じゃないかという風に思えてきます。
ソ連のドイツ戦車開発への影響というのは思いのほか無視されがちで、1924年にカマ戦車学校を設立してから実験はナチス政権の誕生する1933年までソ連国内で可能でした。この間にソ連が作ったのはT-26軽戦車、T-35多砲塔戦車、BT快速戦車というラインナップであり、もしこれらの情報が伝わっているのであればナチス政権下での計画に影響したことは想像に難くないでしょう。
 フランス戦車の影響というのも存外に無視されがちですが、ティーガー戦車に繋がる重突破戦車の構想は1935年3月、この2か月前の1月にシャールB1が生産開始されているのには注目したいです。30tという重量設定もちょうどB1と同じですので、状況としてはなかなか良い感じに合います。極東に目を移してみますと、そのシャールB1とほぼ同時期に八九式中戦車の試作が完成しています。この時点ではドイツはI号戦車の計画すらはじまっていないので、歴史の中で一瞬ですが日本はドイツよりも戦車開発で先に進んでいたのだなあ、としみじみ。逆に古い時代に作られたと擁護したくなる九七式中戦車チハの試作車完成はIII号とIV号より遅れます。初期型の性能においては優っている…のは当然で試作完成時点で比べると1年ぐらい世代が違います。これで最後まで対戦車戦闘性能及び改造型の一式砲戦車生産共々ご存知の有様でしたから、もう結果がああだったのは時代が云々とか言わずに「力を入れなかったから」と言い切った方が楽でいいんじゃないかと思えてきますね。一式砲戦車の遅れっぷりは他の対戦車に使える戦車改造自走砲達の中でも飛びぬけていますが、先駆者ともいえるIII号突撃砲の開発は早すぎると思えるぐらいに早く、III号の試作テストをしている頃には既に試作車両ができています。予想される相手であるフランスが固い要塞や戦車を持っていたりするので急ぐのも当然といえば当然か。それでも後の活躍も考えるとファインプレーと言えるぐらいに好判断だと思います。
 最初の戦車開発国であり他国に当初は輸出しまくっていたイギリス戦車のドイツ戦車開発計画への影響はいわれるほど大きくないのみたいですが、最初の巡航戦車と歩兵戦車が生産を開始したその1年後にドイツはさっそくIII号とIV号を統合した新型戦車の計画を発足させます。III号もIV号も先行量産品を作ったばかりのこの時期に随分と決断が早いと思うのですが、もしこれがイギリスでの運用状況の情報を聞いた上だと考えると面白いですね。この統合計画はVK.20へ、先行していた30t級重突破戦車はDW1からDW2を経て同時期にVK.30計画となっています。そして、前者がパンターへ、後者がティーガーへ発展するわけです。ティーガーの方が登場は先なのになぜかVI号……というよりは大体同じ時期にV号、VI号の元になる計画番号が付与されていると考えるのがすっきりしていい感じです。いつ実戦に登場するかはあくまで開発状況によるので、これを基準にしてはいけません。ドイツ軍はI―II、III+IV、V+VI、VII+VIIIというセットで戦車開発計画を立てる傾向があり、つい戦車の登場時期を見るとおかしく感じてしまいますが、計画の流れで見ると番号的に変な入れ替わりは起きていません。なお、この2つの計画開始の2か月前にソ連ではKV-1の試作車が完成しています。早い、早いよ……、元々比較的他国に比べて先行していたのですが改めて赤軍の技術を侮ってはいけない、というか冬戦争なりでメタメタだったとはいえ、ここまでの流れだけで見てもソ連の戦車開発に関して侮る要素がなく、ドイツ上層部の思考にはちょっと変なバイアスがかかり過ぎでは?と思えてきます。この辺りはあのグデーリアンに馬鹿にされても仕方がないですね……。

まだ見ていて面白そうなポイントがいくつかあるので、それは次で語っていこうかと思いますよ。




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  1. 2017/03/31(金) 22:26:38|
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新年のあいさつと軍縮と対金剛級戦艦に関するアメリカ戦艦建造計画のお話

かなり遅くもはや1月も終わろうとしていますが、明けましておめでとうございます。
本年も各方面にて元気に活動していきたいと思っていますので、よろしくおねがいいたします。
このブログに関しても毎年書いてますが、方向性を見失いつつも1月1回更新を維持してがんばっていきたいと思います。
適当な時にお付き合いいただきませ。

今年は去年で色々あった結果ものすごく久しぶり(6~7年ぶり?)に集中してRPGなんぞを作ることになり、またひっそりとゲーム制作支援用にEntyをはじめました。
https://enty.jp/saizwong
実際、製作用の資金はあらかじめ用意していたので(元々VWのリメイクは機を見て行うつもりでいました)、ここで支援がなくても進行そのものには支障はないのですが、ちょっとでもあるとやる気も違えばもっとクォリティをあげる可能性もあがるので、よろしくお願いいたします。


さて、今年一発目の話題はちょっとした戦艦のお話です。
別に新説というわけでもなく、普通に一般書籍を何冊かかじっただけの浅いものなうえに「まぁそうだろうね」という結論で終わってしまうものなんですが、あの戦争が始まる前にな~にを各国やっていたのかという一端を垣間見れて面白かったので、紹介したいと思います。なるべく一般向けに書こうと思うので、知ってる人には用語なり表現がもどかしい所もあるかと思いますが、ご容赦を。

第二次世界大戦が勃発する前の1930年代。既に色々ときな臭い状況にはあり、この時点でお互いの不信感は頂点に達してはいたのですが、それでも外交交渉は根強く続いていました。
なんとか戦争を避けるためにそもそもそれを行う武器を減らそうという軍縮会議も継続しています。ようするに、いきなり自分から武器を捨てることは難しいので、国同士で話し合ってある程度の割合を一緒に減らしていこうというものです。
海に囲まれた日本として重要なのは大量の大砲を搭載する巨大な鉄の船「戦艦」なわけですが、これも当然軍縮の対象として挙がっています。
既に軍国主義の国ではあったものの、日本はこの戦艦に関しては軍縮会議の開始後、新規造船は行わない方針となっていました(研究や計画は将来の危機に備えて続きますが)。
これは色々と理由があるものの、一番大きいのはやはり戦艦の建造にしろ保有にしろとんでもないお金と燃料がかかるので、資源に乏しい日本としてはアメリカやイギリスといったお金持ち国に追従して戦艦を作り保有し続けるには限界があるというのが目に見えていたということがあります。今と違って経済力もそこまで高くなければ恐慌後のごたごたで景気が良くないということも忘れてはいけないですね。
そのため、軍備を持つにしても、どちらかというと小型の船や航空機を重視することになる……のですが、当時のアメリカにしてもイギリスにしても経済問題を抱えているのは変わらないので、軍事予算を減らす目的から戦艦を減らすか作るにしてもそれほど大きくないものにし、小型艦と航空機で補おうという方向は割と似たようなものです。

この軍縮は1921年のワシントン軍縮会議で船の排水量(トン数)や大砲の大きさに制限が加わり、その後の1930年にロンドン軍縮会議にて各条件がより厳しくなって枠から外れた船は廃艦となり、そして1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議へと進んでいきます。
この第二次ロンドン軍縮会議なのですが、日本としてはアメリカとイギリスに対して同等の軍備を持つこと(これまでの会議では概ね対英米7割)、そのためには全ての戦艦だけでなく、航空機を大量に運用できる新鋭の兵器として期待されていた航空母艦を全廃するというのも視野に入れていたという話も伝わっていますが、どこまで本気だったかはなんともわかりません。私としては歴史の結果から見てみればそれもよかったんじゃないかと思うのですが、国内の軍人にはかなりこの軍縮事態に反発する人も多かったらしいので難しかったのではないかとも想像します。
ともかく、日本としては軍備を縮小しつつ最大限英米との対等を実現することに固執しますが、これには英米はかなり眉を顰めます。基本的に日本は自国より少ない、これまで通りの7割程度を維持することを本会議前の予備交渉時点で要求しています。
どうにかこれまで続いてきた軍縮交渉もこの日本の固執から破たんする可能性が見えてきてしまいました。

この時、アメリカでは新型の戦艦ノースカロライナ級の建造計画が進んでいたのですが、この軍縮条約の結果が直接影響するため非常に迷います。この戦艦の建造の方針は大きく2つ。1つは既に日本は戦艦を新規で建造することはないものの、どうも今持っている古い戦艦達、特に高速を持つ金剛級戦艦、が強化改装が行われていることがわかったため、これに対抗すること(アメリカの戦艦はこれまで防御力を重視して20ノット前半しか出せない鈍足しかいませんでした)。もう一つは新たに登場した飛行機を運用する船、航空母艦に追随してこれを攻撃しようとする敵の船を撃退すること、でした。そのため、ノースカロライナ級には30ノットという巨大な戦艦としては高速が求められることになります。
さらに第二次ロンドン軍縮会議において、戦艦は主砲口径36cm砲までしか持てないことが概ね決まっていました。これまでの戦艦で最大の主砲口径は41cmでしたので、それよりも縮小することになったわけです。そのため、ノースカロライナ級も36cm砲装備として計画が進みます。41cm砲よりも36cm砲は小さく軽いので、1発当たりの威力は低く、それなら砲門数を増やそうと4連装砲塔にする計画も存在しました。実際、この条約が締結されるだろうと見込んで建造していたイギリスのキングジョージ5世級戦艦はこの36cm砲4連装砲塔を装備した戦艦として完成しており、若干遅れて進んでいた戦艦ノースカロライナの計画も同じような装備の戦艦として完成する…はずだったのですが、このわずかな遅れの時間の間に日本の固執から交渉が破綻する可能性が濃厚に見えてきたのです。

もし、日本との交渉が破綻したらどうなるのか?この場合、アメリカとイギリスの間でのみ軍縮条約が結ばれることになります。日本に配慮しなくていい分、英米は若干緩い条件で条約を結ぶことも考えていました。これは「エスカレーター条項」と呼ばれています。もし、エスカレーター条項が発動した場合、それまで36cm砲しか装備できない予定だった戦艦は41cm砲も装備できるようになり、船の大きさももっと大きくすることができます。

そんな紆余曲折の中、既に戦艦ノースカロライナの船体は船台の上で概ね組みあがっている状態でした。確かに計画の中に41cm砲を装備させた方がいいんじゃないか、という案はあったのですが、交渉は最後には締結できるだろうと予想している人も多く、36cm砲搭載案は根強く残っています。こんな状態から最終的に41cm砲搭載に推し進めたのは他でもないルーズベルト大統領の決断が大きかったと言われます。あまり他の国の首脳に比べて兵器開発に口出ししないようなイメージでしたが、やるときにはやるのかもしれません。この決定が出た時にはまだ正式に日本は脱退表明をしていなかったということで、歴史にifはありませんが、もし日本がすんでのところで第二次ロンドン軍縮会議に合意した場合、アメリカの新型戦艦が最悪廃艦になり、ルーズベルトにもいろいろと責任問題が発生していたことが考えられます。締結のデメリットは相変わらずの対英米7割維持と、数隻の戦艦の廃艦(戦艦大和も恐らく作るのは相当困難になります)、それ以外の艦艇の数と大きさの制限あたりですが、割と安いと思うのは私だけでしょうか……?
USS_North_Carolina_(BB-55)_underway_in_the_Gilbert_islands,_November_1943

さて、こうして半ば強引気味に41cm砲装備戦艦となったノースカロライナなのですが、短期間での変更は当然のように他へしわ寄せが来ます。36cm砲装備の予定だったところにより大きな砲を積むわけですから、当然重量が増します。その結果、速度は30ノットから28ノットで妥協。概ねできていた船体に装甲もそれほど施せず弱防御。仕方ないとはいえイマイチバランスの悪い戦艦として完成し、これには計画に携わっていた関係者が「当初の目的が捻じ曲げられて何がしたいのか良く分からない船になった……」とぼやいたという話が伝わります。
この経緯のため、日本も完全に脱退し、軍縮の縛りがなくなって戦争が始まることが濃厚になった時、アメリカはノースカロライナ級の改良型として同等の火力、同等の速力を持ちつつ防御力を改良したサウスダコタ級を計画。そして、金剛級をはじめとする自国より高速の日本の戦艦を圧倒でき、かつ空母の随伴も可能な本来の目的を達成し得る戦艦アイオワ級へと繋がっていくことになるのです。
一方、このようなアメリカ戦艦建造計画の流れの側で、広く知られているように日本は27-28ノットの速力を持ち、巨大な砲と重防御を誇る巨大戦艦大和の計画が進むことになるわけです。

第二次世界大戦の前には日本をはじめとする各国の果てしない軍事力増強があったというイメージがありますが、実際はどちらかというとどのように減らすのかという紆余曲折の交渉のもつれが響いています。
その結果、本当に欲しかったものではないものを持たざるを得なくなったりというのはあの巨大なアメリカであっても変わらないわけです。
若干端折り気味に書いてしまったので、もし詳しく正確に知りたい方は書籍を購入してみることをお勧めいたします。といっても大体は洋書になってしまいますが…。






テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017/01/28(土) 13:01:48|
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