「常識を疑ってみる」というのは何か調べたり、考えたりするきっかけなのですが、かのアインシュタインは常識についてこのように述べています。
常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。 なるほど。
これに基づいて普段常識といわれていることを見てみると、ちょっと色々分かって面白いです。
と、いうのも「常識」の言葉が出る場合大抵は「特定の場面においてある行動を指定する際」に用いられるからです。
これにはその行動をしてはいけないと禁止も含まれます。
また、常識についてはその
理由を述べません。
常識についてなぜそうなのかとたずねても答えは返ってきません。
なぜなら、「常識」という言葉を使用するのは理由を述べることを避けるために他ならないからです。
ここでは本当にその常識に理由があるかどうかは問題ではないのです。
問題はそれを言う事によって「理由が省かれること」にあります。
なぜなら・・・という言葉ではじめた瞬間、その場面における行動の特定は常識とは違うものになります。
理由を知っているならそれを述べれば理解も早い。
「常識」という言葉を使う必要がないのです。
「常識が分からないのか」といいますが、これは実は変な言葉です。
理解させるのならば、それは理由を述べた上できちんと説明すればよいのです。
説明できないことは理解には繋がりません。
だからこそ、「常識」という言葉を使っているのです。
例として思いついたものに「お年寄りには席を譲る」というものがあります。
これはアインシュタインの言う「偏見」の典型例でしょう。
お年よりは足腰が弱いのだから、という偏見が元になっています。
故にこの理由は述べません。失礼ですから。
代わりにこれを常識ということにして行動させます。
それに、よくよく考えてみると、今は年金で遊んで暮らせる年寄りよりも毎日通学のプレッシャーに耐えている学生のほうが実は座る必要があるのではないかと思ったりします。
そのままプレッシャーに押しつぶされて引きこもったり、酷い場合は自殺もある最近の時勢。
今の学生の未来には年金自体があるかどうか分かりません。
まぁ、最近は元気なお年寄りはむしろ譲られることに抵抗を持ったりもしてますから、「常識」などすぐに変化するかもしれませんが。
こうしてみると、実はちゃんと考えるという意味では「常識を疑う」どころか、相手にしないで軽く受け流すぐらいがちょうど良いのかもしれません。
普段、癖のように「常識」といっている人は、ちょっと考えなくなっているかもしれないのでご注意を。
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- 2009/11/18(水) 03:47:59|
- ただの雑記
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